緑字生ズ 084 (うちよせる波。……)

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うちよせる波。巌の暗い穴に。人の波。海原でふたたびこわれてうちよせる波。白いしぶきめがけて真紅の鴎が落下する。いや、赤い眼をしたオットセイだ。井戸から汲み上げた水が濁る。ところで、冷たい風はなぜ娼婦たちのように優しいのか。花嫁衣裳にガマガエル、ああ虻の捻りのなつかしさ。コバルト色の水平線が烟る。水晶体のくもり、眼を蔽う血、蒸発する血。雲が染まってゆく。けれど、太陽はこれから五十億年は動きを停める。イエス・キリストよ、汝は溶媒。そういえば、朝が来たという話を聞いたことがない。それなら機は熟している、革命前夜だ。そうだ、朝はない、昼と夜ばかり。フランスパンを齧ると経血の味を思い起こす。まてよ、おれの体を切り刻むのは誰だ。知覚が麻痺しているのか。銀色の髭を生やした医者の科白。眼には楓、口裏には燃えるインク、顔全体が銀色。髭が伸びすぎてそう見えるのだろう。しかし、眼だって口だってなかったぞ。腕だって、もしかすると胴体もないのではないか。診察のとき、おれは銀色の髭に包まれていただけなのだ。そうするとあの医者、髭を剃ろうとして間違って肉体の方を剃り落としてしまったに違いない。あの先生、あわてものだって評判だからな。でも、残された銀色髭にしてみれば、そんな噂をする方がおかしいと思うにきまっている。肉体など剃られるのが当然で、それを馬鹿げたことという連中はよっぽどオポチュニストなのだから。銀色髭先生はおれのことを、後天的逆行性知覚神経不全、つまりもう存在していないようなものだねと診断した。はっきり喋ったのだ。――おぞましい、どこに言葉を発する器官があるんだ。機能障害、いや機能喪失はやっこさんの方だぜ。ん、いま気づいたのだが、おれのあの部分がなくなっている。すっぽり切られている。あっ、痛っ、おれの足を喰っているのは誰だ。いや、犯人は時間そのものを啖っている。おれなぞ目じやないのだ。おれの口は――、あ! おれの口が勝手に動いている。何だ、何を喰っているんだ。味覚も触覚もない、ただ胃が重く、さりながらおれの体が軽くなっている……。シュプレーガデス、鳩は肛門の共犯者、銀のスプーンに指の脂がつく。洞窟のたったひとつの出入口が光線の加減でいっそう蒼く見えた。