旧作:197404: 魔の満月 第一部(習作)

火が断たれ船着場は閑静を極める 闇の運ぶもの――魚貝類・藻・人間の手足の腐敗臭――の底に潜み休息している縞模様の頭脳を抱え邪悪な想いに浸る両生類 その強固な甲羅と鞭の様にしなやかな尾はかつて如何なる強敵に出会ってもその尊厳を失せしめられた事はない――例えば ある嵐の晩に大洋で対した巨鯨との一戦は記憶に価する その鯨は底なしの洞穴を鋼鉄よりも硬く厚い皮膜で包み 胃袋では海底火山の様に憤怒を燃え上がらせ 時折 海上にその巨躯を浮かべ背から灼熱の熔岩を吹き上げる 両巨頭の出会いを決定づけたのは両生類の鋭敏な嗅覚であり 運命的な対戦にはそれから二年余の歳月を要する その間 互いにその存在を予感しながら相手を捜すことにすべてが費される 嵐の中に灼熱の火柱の上がるのを見極めると 両生類は遠巻きにその周囲を漂う 鯨は獲物を背後に感ずると高波に逆らって方向転換を始める 互いに相手を窺いその強靭な体躯に見とれる 嵐は激しい雷を伴い その爆発の度に二頭の不気味な姿が浮かぴ上がる 次第に鯨は己れの巨大さに自信を回復し 如何程の敗北の不安をも感ずることはない 赤味を帯びた巨体が輝き出すと 正義は鯨の側につく 威風堂々として海の主の様に存在する鯨は 自然の摂理を定めそれを執行することを美徳とする彼の好意を甘受する 両生類は次第に己れの無謀さを認めざるを得ない だが正反対に体中に激しい戦慄が湧き上がる 同時に甲羅は緊き締まり硬度が一層増し 尾は興奮のため跳ね上がりながらも蒼白に光り始める 生まれてからかつてない昂り 稲妻が風雨を縫い鯨を映し出すと その自信に満ち雄大で恥知らずの巨体に激しく憎悪を掻き立てられる 正義とか愛は憎悪に打ち倒されることによって正義とか愛となる 闘いは詳かにされず勝敗も内容も明瞭とは云えない ただ 両生類の方は甲羅と尾を除いて他は痕跡をとどめるに過ぎず 極度の疲弊によって波に身を任せる 巨鯨は顔面を潰され腹部が素晴しくよく切れるものによって口をあけさせられている 互いはそれぞれの強さを認め その崇高な肉体を讃美し合う 嵐は一ケ月にわたって海を攪拌し創造者の様に振舞っていたが 秘められた劇の終了の頃には鎮まっている 巨鯨は彼から匙を投げられてはいるが 最大の敵との出会いに感激している 特に あの体当りにも損傷を受けるどころか己れの頭蓋骨を砕いた甲羅 胴体に痺れる様に喰い込み一瞬のうちに内臓を飛び出させた鋭利な尾 鯨は誇りを持って自分の支配する者へこの闘いを伝える――火が断たれ船着場は閑静を極める 闇の運ぷもの――魚貝類・藻・人間の手足の腐敗臭――の底に潜み休息している縞模様の頭脳を抱え 邪悪な想いに浸る両生類 際限なく闇に沈む両生類は回復を待つ 際限なく闇に沈む両生類は回復を待つ およそ マストはひしゃげ錆びついた船体ほどに 邪悪な想いと符合するものはない 塩水が至る所の傷口に悪態を沁み込ませていくと耐え切れぬほどの戦慄が走る それは血液の様に体のあらゆる箇所で満たされる 羽毛の様に軽い天に燦然と輝きわたる星図から 夢を掃く様に星片が放物線を引く 両生類は 世界を二分するには生涯を活火山の如く戦闘させねばならぬというならば 想いの涯は冷徹な心の臓を停止させて彼の挙動に注目せねば到達できぬ遠いものであることを想う 両生類は巷間に降るそいつの分身に賛同を求める だが そいつ自身は両生類を断乎生かすべきではないと結論する 敵は味方の顔をしながらも敵であり されば 味方はまず第一の敵である 両生類は回復を待つ しかし耐え切れぬ戦慄は先走り敏感な夜の空気が遠ざかる 両生類の強さは至る所で誇大に流布される 彼が味方に引き入れようとするのも時間の問題である 数週間後に彼の軍門へ下りその配下につくのも明らかである そいつはこの哀れな片輪者を第一に殺害することを考える 回復を待つ片輪者はそれにもかかわらず彼に代わり釆配を振るうに最適の謀略に長けた者だから 両生類は代埋の地位に甘んじながら彼の地位を奪取することに想いを馳せる 火が断たれ船着場は閑静を極める 闇の運ぶものの底に潜み休息している