●Date : 3:14pm 9/25/89 From : pcs00372 (直江屋緑字斎)
以下の文章は、緑字斎が戒厳令下の北京を訪れたのを機会に知り合った青年から託されたフロッピー原稿をMS-DOSに変換したものである。
原稿を尊重し、ほとんど手を入れていない。原稿は5章からなり、五つのレスポンスに分けて掲載する。
佐丸寛人は原稿の性質上、ペンネームである。また、これは多くの人々に伝えたいという著者の意向から転載に関しては制限しない。
また、虐殺以前の中国国内の新聞等に掲載された学生側に近い立場からの論文の翻訳なども預かっているので、順次、発表したい。
著者は、1960年東京生まれ。
1989(平成元)年6月4日当時、甘粛省蘭州市に、教師として滞在。
今回、著者より掲載の許可を得た。
この文章には中国語版がある。
這篇文章有中文版本;「一個日本人親歴的六四天安門事件」
作者: 東揚仁(日本)
【大紀元5月25日訊】(2004年)
内側から見た恐怖政治――中国一地方都市で暮らして
佐丸 寛人
一、興奮から冷却へ(「6月4日事件」以前)
私は中国北方A市で働く日本人である。まだ大陸での仕事が終わっていないので、私や友人たちの身を中国当局の圧迫から守るためにも、人名・地名・固有名詞は伏せねばならず、結果として歯切れの悪いものになっているかもしれないが、この点は御了承願いたい。
「6月4日事件」の少し前から書き始めよう。中国北方は、南方(上海、江、福建、広東等)や北京に比べ後進的・保守的な所であるが、時間差こそあったものの、ここA市でも民衆運動が始まった。方法も北京と同じ、即ちスト、デモ、ハンスト、座り込み等である。中国の主要都市にはみな天安門広場をまねた広場が中心にあるが、A市でも同様にこの広場が運動の中心となった。そして、天安門広場に100万人が集まった頃には、この広場も民衆で埋まり、地元のマスコミも好意的に取りあげた。