連載【第070回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: nightmare III: 〈multiverse〉

 nightmare III

 〈multiverse〉
 世界が個人的に分割されていくとはどういうことなのか。現実、宇宙、あるいは次元とは、〈見ること〉が経験することであるなら、その事象を〈見ること〉自体が判断したり、選択することで多宇宙が生み出されていく。粒子が自己という鏡を見ることで反粒子として分割させるように、多宇宙をすべからく経験していくのだ。そして、複数宇宙(マルチバース)から見ると、分割宇宙は同時に並列して存在し、粒子そのものから見たときには()宇宙は分割されずに単一宇宙である。つまり、単一宇宙の経験を終えることで、別の()の宇宙に切り替わり、次々に別の世界体験を経ていくのである。見る主体は全宇宙の存在の全可能性を知るのだ。
 その意味では、現実は体験上単一であり、複数現実ではない。だが、見る主体は、単一世界を終えることで次の世界からさらに歩を進めて、全宇宙を自分のものとすることができるのだ。人生の成功も失敗も、幸福も不幸も、すべての分岐世界を体験するために。

 どんなに抑圧されても、悲惨な目にあっても恐れることはない。この世がすべてだからと、自分を諦めることもない。現実がすべてではないのだから、抑圧に対する抵抗者となって、思うことを存分に果たすことが可能なのだ。
 抵抗する者はつながりとなり、系譜となって()の世界の分割を進めていくこともできるし、多宇宙に飛び出していくこともできるのである。
 成功者とか抑圧する者、支配者の世界は単一現実における短命の貧しい体験者であり、これに対して苦しみ闘う者は豊富で質の高い体験を、全宇宙を通じて果たせるのだ。
 彼は奴隷にはならない、家畜のように使役されたり、食肉に供されることもない。国民であったり、市民だったり、下僕だったりしない。全体に支配される部分などではない。誇り高き抵抗者の思いを継ぐ者は、権力の亡者にへつらうことはありえない。たった独りといえども、その思いは断乎たるものだ。主義、主張、あるいは帝国軍だろうが共産軍だろうが、また権力と抑圧、ファシズムの下僕に幾度となく囚えられても反抗をやめることはない。

 パラレルな世界を生きることに、利益や損得はないのだ。人が生きていく世界は、たった一つではない。そして、個の断念と希望の継承ともいえる戦意は、全宇宙のあらゆる複数世界でもつながり、重なっている。経済法則、もっともらしい処世技術、捏造された支配原理、法律や罪と罰は、たった一個の強欲な権力構造が強制したものだ。普遍的な正統性など、そのどこにもない。自然原則といえども、多世界であれば同じはずがない。
 どのような権利で土地を奪うのだ。どのような正義で税を収奪するのだ。誰のものでもない、この世界から。(悪夢III〈複数宇宙〉)