【登録 2003/08/26】  
紙田治一 遺稿[ 八路軍の軍医時代 ]


(中国医科大学の建設) 1

 1946年2月・春節(中国の旧正月)の前夜、満州遼寧省通化市に国民党の特務員孫の謀略によって、旧日本軍(関東軍)藤田参謀と関東軍臨時野戦病院(仮称赤十字病院院長柴田久軍医大尉)の将兵と治癒患者、市内に潜伏していた旧日本兵が「東北民主聯軍(共産八路軍の満州編成軍)の通化市の司令部と駐屯部隊を攻撃して市を占拠し、近くに進撃して来る国民党の部隊(戦車を有する)と合流して南満を制圧する。事成功の後は、日本人は速やかに帰国させる」との密約で、藤田・柴田・赤根等の元将校が扇動指揮者となり、一部の旧日本兵が暴動に決起した事件――これが、称して通化暴動事件である。

 謀りごとは敵の朝鮮人部隊に事前に察知されていて、迎撃の態勢が出来ていた。おまけに決起時間4時間前に摘発された。発電所の占拠、電源の点滅合図、司令部の攻撃指令が、予定よりあまりに早過ぎたので、参加すべきグループも戸惑った、しかし既に待機していた敵は攻撃を開始して来た。ソ連軍の武装解除で、我々には武器も少なく、大半が徒手空拳と同じ状態で、敵の武器を奪って戦うしかない。情報が洩れていて、武器を持った兵隊は一人も日本人に近づかない。攻撃グループと敵の銃声は少なく、爆竹(春節のための花火)としか思えなかった。
 約1時間くらいすると武装した敵兵部隊が日本人狩りを始めた。続々と逮捕された日本人男性は、各所に拘置繋留された。名前を「藤田」と名乗っただけで、藤田参謀と間違われて即座に外に引きずり出されて銃殺された友人がいる。

 最初から反抗的だった私もあわや銃殺の危険があった、中国語がまだはっきり判らぬまま、警備兵に話しかけていたら、失敬な言葉が混ざっていたので、彼は奮然と怒り出した。その声があまり大きな声だったので班長が飛んで来た。何か話し合っていたが、突然針金を持ってこさせ、私を縛り上げた。そうして隣の部屋に監禁された。
 そうして「ダース、チャンピー」と叫ぶので、私はチンプンカンプンさっぱり判らない。中国語の判る石橋健治君が近くにいたので「石橋、何と言っているんだ」と大声で尋ねた。すると石橋君は「大変だ、銃殺してしまえ、と言っているぞ」と言う。驚いた私は「石橋、君から中国語で殺すな、針金も解けと話してみてくれ」と頼んだ。石橋君は班長に中国語でペラペラと何か話すと、「ミンパイ、ミンパイ」と言ったかと思うと、側に寄って来て針金を解き出した。
 それで一応は殺されずに済んだ。しかし乱暴な人間だと烙印を押されて、重罪嫌疑者として、別の所に移動させられて、格子のある本格的な牢獄に、足首に鎖、鉄玉の足枷を着けられ、2週間入れられた。

 釈放されたのは一番遅かった。一緒にいた中には、暴動首謀者が5名もいた。彼らはその後銃殺された。私も少しのところで銃殺組に入るはずであった。取調べは全部で3回。1回目、2回目は朝鮮人で、日本語、中国語も大して上手でないので、取調べも簡単で、私の言うことは聞いてくれない。3回目に取り調べた中国人幹部は日本語の達者で、中国語が出来ないことで、誤解から起きたこととだと判ったら、大笑いして、「貴方は釈放します。今後中国にいるのだから、中国語は上手になって下さい。これは私が日本語を勉強した本です、これを貴方に差し上げます」と言って、机の上にあった本の中から一冊取り、私に渡してくれた。
 その人のお蔭で命拾いをした。その後、私は中国語を一生懸命努力して覚えた、なにしろ命が掛かっているのだから……当然であったが、それが後日大変役立った。良い本で判りやすく、覚えるのに簡単な内容で、完了すれば一等通訳程度の実力がついていた。

(未定稿)

[作成時期]  1988.10

(C) Akira Kamita