【登録 2003/08/26】  
紙田治一 遺稿[ 八路軍の軍医時代 ]


(中国医科大学の建設) 2

 反日朝鮮国人の密告で、中国側と折衝してたくさんの難民(日本人)の世話をしていて、医師としても中国人にも信望の厚かった奥田省立病院院長が殺された。(暴動に全然無関係なのに、朝鮮人は、日本人が中国人と仲が良いか、信望があると邪魔をしたり、陥れたりした。)
 奥田院長は私と同郷の石川県美川町の出身で、奥さんは金沢市金石町の出身で、私の住んでいた所から近かった。妹さんは私と同学年だった。省立病院に派遣されて知り、何回も官舎に遊びに伺った。話題にこと欠かなかったので、深夜に及ぶ日もあり、ロシアの酒などご馳走になった。
 院長は中国語が流暢だったので日僑民会と中国官庁、軍との交渉に活躍されて、常時中国服を着ておられた。温和な人柄で他人の面倒見の良い方であった。満州大学医学部を卒業されていた私の恩師・田代先生の先輩で、私の話で「田代君ならよく知っているよ、彼は軍隊に召集されたが、君は彼の弟子か、奇遇だね」と言っておられた。
 難民のための診療所を造られ、私に任された。ただ銃殺されたとしか判らず、遺体は何処にあるのか全く不明である(私が釈放されて、官舎に伺い、奥さんやお手伝いの女中さんから聞いた)。
 奥さんはご主人が亡くなられたので心細く、収入のめども立たず、生活費にも困っておられた様子で、私の顔を見て大変喜んで、頼りにしてくれた。先生の恩に報いるため、生活費を得んと、私はそのため一生懸命仕事を探した。

 顔見知りの医師松本正雄君を訪ねて、彼の働いている中国人経営の医院に紹介して貰おうと頼んだ。すると彼は私に「僕もここを辞めるんだよ。八路軍で軍医を募集している。簡単な試験と面接があるが、君も一緒に受けてみないか。支度金もいいようだ。それからナースの斉藤光子君が中国人医師(経営者で老人)に妾になれと迫られている。私は妻がいるので、君の婚約者ということにして一緒に行こう。軍隊に入れば斉藤君も安全だから」との相談。
 私も金は要るし、同胞の女性も救える(彼女は21歳で、色白でなかなかの美人、チャーミングなナースである)と承知して、翌日松本君と一緒に試験場に出かけた。試験はアッペ、イングィナールヘルニアの手術術式のペーパーテストで、面接は任院長が中国語で「為傷病兵服務」と書いて見せ、片言の日本語で「人道博愛主義判るか」と質問したので「明白(ミンパイ)」と答えたら、今度は「OK」と来た。合格採用決定だ。
 新任務(四平街の戦闘に備えて病院を造る)は急がれた。2日後編成完了する予定であった。2日間内に集合するよう場所が示されて、支度金として満洲銀行紙幣で1万円渡された。家族を連れ、荷物を最小限度持って来るよう指示された。
 私はお金を持って奥田未亡人の家に行った。奥さんは留守だったので、女中さんにお金を全部渡して「必ず無事で迎えに帰って来ます」と言って別れた。その後二度と通化市には行けなかった。清水憲太郎君が奥さんと4人の子供さんの面倒を見て、1947年無事帰国、金沢に清水君が連れて帰ったと聞いた。

(未定稿)

[作成時期]  1988.10

(C) Akira Kamita