【登録 2003/08/26】  
紙田治一 遺稿[ 八路軍の軍医時代 ]


(中国医科大学の建設) 3

 私は松本夫妻、斉藤光子ナースと共に指定集合場所の飯店(中国旅館)に赴いた。大歓迎で、早速宴会が開かれたのであった。久しく口にしなかった酒とご馳走に満足していたら、「紙田大夫、斉藤愛人、どうぞ部屋に案内します(ズーテンターフ、チートンナィレン、チンライ、ニーメンデ、ウーズ、バー」とダブルベッドの部屋に案内されていった。恋人(婚約者)を愛人と言ってあったので、八路軍では妻を愛人(アイレン)と言う慣習なので、夫婦だと一室のダブルベッドが用意されたというわけだった。


 翌朝早く起こされた。すっかり疲れきってぐっすり眠っていた二人は「チーツォアンバー(起きなさい)」の大声で慌てて飛び起きた。衣服を急いで着て、洗面を終えて食堂に行き、先に始めていた任院長、松本夫妻、王政治委員と私と新妻・光子で食事をした。
 午前9時、通化駅発の火車(ホーチョ)汽車で目的地・柳河市(リューホーチョン)に向かった。5時間くらいで到着した。建設中の新病院に入って、明日副院長の連れて来る後陣を待った。宿舎は今日は軍医宿舎は別で、私と松本君が一緒で、松本夫人と斉藤光子が〈護士〉フース(看護婦)宿舎に別れた。翌日後続の連中が到着した。
 顔ぶれを見てびっくりした。土肥君、横田君と通化市での内妻夫人、篠原君の野戦病院の仲間がいる。他に竹崎博士(軍医大尉)、その部下の梶君、井筒君夫妻、堤内夫妻、岩井君(ハルピン医大の4年生)、斉藤君(軍医中尉)はじめ、母娘の一対、夫婦者を含めて、看護員、ナース予定の若い日本人男女、雑役、炊事(中には元航空隊員もいた)100名、中国人80名の200名の野戦病院人員が揃った。

 3日後、開院と同時に四平街戦闘の負傷兵が入院して来た。その数100名で中等度の症状であった。早速診療開始。ガーゼ交換、手術、注射、投薬、看護と毎日忙しく働いた。傷が快くなると、直ちに退院させ、原隊に復帰。新入院が2回あったが、その後ばったりないので暇になった。
 それで駐屯部隊の要請で外来診療を始めた。鶏眼、パナリチウム、フルンケル、中にはカルブンケルもいた。外科は結構忙しかった。内科は入院はいなかったが、外来は遅い南満の春のこと、風邪が多かった。
 たまたま外科の診療室に来た一人(連長―中隊長)が、咳が激しく、呼吸困難、高い発熱の症状だ。外科のガーゼ交換を終えて、胸に耳を近づけるとラッセルン(湿性)が聴こえる。カルテの用紙を筒状に丸め、さらに慎重に聴くと間違いはない、急性肺炎だ。ナースに内科の土肥君を呼びに行かせた。彼は間もなく駆けつけて来て、一応診察して「重症の急性肺炎だから即時入院治療しなくては」と。しかし内科病室がない。幸い私の病室(個室)が今日退院後空いている。院長に連絡早速入院させた、土肥君と私の共同診療だ。ナースは斉藤光子。三人の連携プレーでみるみる軽快、20日目に無事全快退院した。

 後日、彼に巡り遇った時は団長(連隊長)になっていて、感謝されご馳走になった。姓名は李志銘で私が南下して柳州市で第四後方医院第一分院の分院長をやっている時、彼、李師長は柳州市に駐屯する軍の総司令であった。まだ35歳くらいの若さであった。その後、朝鮮戦争に参加したとの噂は聞いていたが、生死の消息が判らぬのが残念である。



(未定稿)

[作成時期]  1988.10

(C) Akira Kamita