【登録 2003/08/26】  
紙田治一 遺稿[ 八路軍の軍医時代 ]


(中国医科大学の建設) 4

  1ヶ月半後、病院の人員を二分して、片一方は柳河市にそのまま残り、我々は前線・梅河口市に向かった。
 当時、梅河口は南満の鉄道交通の要点であった。四平街攻防戦での負傷兵がどんどん貨車に乗せられ後送されてくる。さらに後方の病院に送る分類をする任務を命ぜられていた。駅に治療所を設けて交替にに待機した。負傷者列車が入ると乗り込んで、既に死亡している者は下ろし埋葬、重症、中等症、軽症にガーゼ交換をしながら分類した。軽症の負傷将兵は梅河口市の我々の病院に入院させ、重症、中等症の負傷将兵はさらに後方に下げた。こんなことを毎日2、3回行っていた。なお、兵器、弾丸も後方から、また捕獲物資は前線から引っきりなしに送られて来る。

 10日目の昼頃に敵戦闘偵察機が2機飛んで来た。駅の列車が多いのを見つけ、爆弾を投下していった。みごと命中したのは、砲弾を満載した貨車の列車だったからたまらない、轟然と爆発、砲弾は四方に緩い速度で飛び散った。落下した所で炸裂、「ドッカーン」「ボッカーン」、他の貨車、列車に命中して「バッカーン」や「ドッカーン」、凄い砲撃戦の様相を呈していた。駅も線路も周囲1キロは滅茶苦茶に破壊された。負傷兵の列車も吹っ飛んだ。生き残った者は150名くらいの中で50名だけ、後は全員砲撃による戦死だった。
 我々の治療所の人員は「紙田軍医以下10名全員生存、ただし軽傷者10名(すなわち全員かすり傷程度の負傷)」であった。皆、散々戦闘訓練をして来た連中だ、ヒョロヒョロ弾丸で死ぬはずがないが、中国職員はびっくりしていた。
 50名の負傷兵を病院に担架で運搬しなくてはならないので担架隊隊員を募った、中国人は誰も応じてはくれない。仕方がないので日本人ばかりで担架隊を編成した。さすが実戦の兵隊出身の者ばかりだ、何処に飛んで来るか判らない中を突き進んで、負傷兵を救助して運んだ。先導した私も結構勇敢だったものだ、今でも思い出すとゾーッとする。

 その後も敵機は2回飛来した。一度は病院宿舎の上を飛んで機銃掃射をしていった。その時は日本人は平然と落ち着いていたが、中国幹部達は大慌てで、特に院長は拳銃を飛行機に目がけて乱射していた。その姿が滑稽だったので、後で院長に「あんな拳銃で飛行機が落とせるものではないのに。かえって目標になって撃たれるのが関の山だよ」と言ったら、「手槍(拳銃)では駄目だったが、関裡(中国本土――北支)では槍(銃)で日本戦闘機を撃ち落としたことがあった」と言う。今度はこっちが驚いた。「院長は我々よりも歴戦の勇士だったのか」と、皆で囁いた。

 竹崎隆昌先生は召集された軍医大尉であった。東北帝国大学医学部卒業後、杉村外科教授の外科医局で学んだ優秀な愛弟子であり、仙台市の杉村外科病院の院長代理をやられた方で、外科ではオーソリティだった。しかし「戦傷外科は整形外科が必要だ」と言われて、神中整形外科書を大事にして、暇があると読んでおられ、私達にも懇切に教えて頂いた。

(未定稿)

[作成時期]  1988.10

(C) Akira Kamita