(中国医科大学の建設) 5
長春市(チャンシュン、新京市)が敵・国民党軍の統治から解放されたので、我が病院は長春市に向かった。ほとんどの日本人は長春市(新京市)に行ったら、抜け出して逃げて、たくさん避難・居留している日本人達の中に潜り込むのだと、各々が胸に秘めていた。そんな日本人の考えていることは、中国側にはお見通しだった。医師、看護婦は監視付きだった。
それでも長春は日本人が多かった。物売りの店は路上に長く続いていた。病院にはジャムス、ハルピンの医大の教授、学生が仕事をしていた。ジャムス医大の勝沼教授の勤務している中国人経営の病院を訪ねた。学生も働いていた。皆、経済的に困っていた。私らは僅かではあったが給料を貰っていたので、半分置いて帰った。日本人で上演している劇場で尾崎士郎の「人生劇場」を観劇した。
その翌日、公主嶺市に出動して鉄道病院を接収して軍病院を開設するので、トラックに分乗して長春市を出発した。公主嶺市の鉄道病院には人影はなかった。接収ではなく、空き巣に居座りみたいな恰好で、病院の大掃除、整理整頓をして開設準備をした。王副院長と松本医師に私と日本人衛生兵10名、中国人衛生兵10名、中国人護衛兵30名は、日本人運転手の運転で、元日本軍トラック10台に分乗して、四平街に向かって(負傷兵収容の任務を帯びて)一路走った。途中、解放軍の部隊が後方に移動している。作戦移動かと思ってトラックはなお走った。
しかし、四平街の近くまで(約10キロくらい)進んだ時、戸数100戸ばかりの部落に入った。静かだ、人気がない。不審に思った先頭の運転手がトラックを停めた。とたんに「パン、パン」と銃声がした。弾丸は外れているが敵に違いない。先刻の味方の部隊は退却していたのだった。気づいて、慌てた。トラックを180度方向転換「三十六計逃げるに如かず」とばかり、命からがら猛スピートでトラックを走らせて、公主嶺を目指した。(後年、昭和59年に小学校時代の還暦同窓会が開催された時、村田正雄君と終戦後の話で、彼が「その時の国民党軍の日本人部隊の中隊長だった。部落を占拠して休憩していたら、トラックが10台走ってきた。停車したので双眼鏡で見たら、どうも日本人の運転手が乗っている。部下に威嚇射撃だけで逃げさせろ」と言ったので驚いた。「おい、そのトラックには俺が乗っていたんだよ」と言ったら、村田君もビックリ。「じゃあ、捕虜にすれば良かったかな」。私も「お前だったら殺されずに済んだかな」と奇妙な運命の出会い、すれ違いに、一緒にいた友達と話が尽きなかった。)
公主嶺の病院に着いてみたら、もぬけの殻で、残っていた者は全員貨車に医療器材、薬品を積み込み乗車待機していた。トラックのガソリンもなくなって走れないので、駅に放置して、我々も貨物車内に乗り込んだ。長春駅に向かって列車は走った、敵機は機銃掃射を加えてきた。1貨車に2発、正確に撃ち抜かれた。機銃掃射を恐れて、たまたま荷物の蔭に隠れていた中国人看護婦が、お尻を半分撃たれて削られた。傷は大したことはなかったが、「頭隠して、尻隠さず」と、美人で、可愛いくて、人なつっこいクーニャンだった。その後、日本人の同僚看護婦達にからかわれたが、しかし中国にはそんな諺はないそうであるから、彼女にはただわけも判らずに合わせ笑いをしていた。ただ傷がお尻なのでガーゼ交換毎に、顔を真っ赤にして恥かしがっていた。
長春市で、集められたたくさんの衛生器材、薬品その他の物資は同じ貨車に積まれ、任院長等の半数に護られ、ハルピン市に先行して向こうで待っている、副院長は残り半数で長春市で既に集めてある薬品、レントゲン、手術器械等と負傷将兵を積載して、次の貨物列車でハルピン市に来るように命令された。
逃亡者が出た。ただし雑役員だけ。器材運搬中に5名は戻らなかった。彼らは翌年無事に帰国できたと思う。監視が厳しくてほとんどの日本人には、逃げる隙は与えられなかった。
(未定稿)
[作成時期]
1988.10