(中国医科大学の建設) 6
列車は翌朝出発してハルピン駅に向かった。(なぜたくさんの医療器材、薬品、医学書等をどんどん後方に運ぶのかとの疑問は後日判明した。鶴岡市に中国医科大学――2年制の戦争実践医学軍医学校――を開設する準備であった。)ハルピン駅に到着したら、任院長が出迎えに来ていた。宿泊は駅前のホテルが全館借り切りしてあったので、食事、住み心地は、これまでと段違いに良くて、快適で豪華な待遇であった。
10日間滞在すると言われた。同裡街(終戦前は純中国人だけの街で、日本人は将兵、民間人を問わず入れず、また入っても二度と出てきた姿を見た者はいない、魔窟といわれていた街)にも行った。想像以上に明るく、商店も大きな店が豊富な商品を並べて、軒を連ねていた。食べ歩き、ショッピングにもってこいという所だ。
ある一日、駅前に5、600名の襤褸を纏った、病み上がりの日本兵が汽車から降ろされて屯ろしていた。側に行って話を聞くと、シベリヤで労働させられていたが、病気になって入院していた。しかし退院の見込みもない者だけが、満州に送り返されてきたとの話だった。やがて彼らは、日本人居留民団と中国市政府の幹部が来て、トラックに乗せて連れ去られた。
10日後、ハルピン市を出発してジャムス市に向かった。ジャムス市のモンゴリ日本人収容所に入った。収容人員は2500名の大きな収容所で、元の連隊の兵営の跡である。ここでの仕事は医師、看護婦、技術者(印刷関係、写真関係、建築関係、機械関係、電気関係、医療機械関係、薬品製造関係等)がいないか調査することであった。医師は所長が金沢医科大学出身の元ジャムス軍団の衛生部長・大道軍医大佐(内科)で軍医が7名、歯科医には、軍医1名、開業医1名がいた。看護婦は婦長2名、正看30名、見習い看護婦60名、衛生兵が500名くらいの患者の治療に当たっていた。その中から内科医師1名、歯科医師1名、婦長1名、正看10名、見習い看護婦20名を選んだ。もちろん各技術者も選ばれて、総勢200名が増えた。
5日後、鶴岡市に向け出発した。鉄橋は日本軍が爆破して使用できなくなっていた。舟で物資器材、人員がスンガリー(松花江)を渡河して、対岸に待機していた貨物列車に乗車して目的地・鶴岡市に向かった。(鶴岡市は日本が北満に開発した大きな炭鉱の街で、大きな立派な炭鉱病院があり、炭鉱技術者の養成学校、幹部住宅、一般従業員住宅が揃っている。小学校2、中学校1、女学校1もあった。軍関係の建物は爆破か破壊されていた。現在、昭和21年〜25年まで、日本人100名、中国人1500名が採炭をしていた。)
(未定稿)
[作成時期]
1988.10