【登録 2003/08/26】  
紙田治一 遺稿[ 八路軍の軍医時代 ]


(中国医科大学の建設) 7

 ここで中国医科大学(軍医2年制学校)を開設したのである。学長は王賦、副学長は孫利大、付属病院院長は任院長がなって、副院長は二人で王副院長、張軍医(満大副学長)である。
 本院が完全に補修が出来るまで、女学校と中学校を病院にして、送られて来る傷病兵を収容、治療を開始した。若手軍医は全員診療に従事した。大家医師は指導を、そして教授の適任者を選考していた。
 関西元チャムス医科大学の内科教授・松原元ハルピン満鉄院長(外科の権威者)、三木元ハルピン医科大学の耳鼻科助教授、中国人の教授、助教授経験者等が続々着任して来た。

 王学長は手術をすることが好きで、我々が手術をしていると「自分にもやらせてくれ」とせがまれた。技術的にはまだ未熟であったが、熱心に教えを乞うので、比較的上達は早い方だった。私にいつも通訳しろと言うので、すっかり仲良くなった。王院長は日本語はほとんど話せない、しかし悪口は聞いてよく判る。日本人が中国人の前で、判らないと思って、悪口を平気で言っていることがあると、彼は笑いながら、日本人の判らない中国語で、悪口を言って「ミンパイ」と問いかける。判らない日本人はキョトンとしているそうである。私に「スイイェ、マーレン、プシンバー」とよく言っていた。そんな人柄であったが、北支の北京ではイギリス人ドクターのところで医療助手として働いていて、医学の勉強をしたので、英語は上手であった。本心は結構親日家だった。日本の医学の進歩に畏敬の念を持っていた。彼は全中国解放後、元の満州医科大学校の学長となって、さらに全中国の医科大学校の学長総代表者になった。

 本院の補修が完成すると、私は外科の臨床教授の下で、助教授を命ぜられた。竹崎、松原両教授の通訳が主な仕事であった。両先生と学生間の講義やポリクリの時の通訳をするのである。そのために講義内容、手術患者の選定、その他の打ち合せに、毎晩先生の宿舎にお邪魔していた。いろいろ教えて頂いたり、懇切なご指導を受けて、大変いい勉強になった。
 また手術も随分たくさんやった。第一助手、執刀者を一日3〜5例、1週間に2〜3日の手術をこなした。また外科外来の責任軍医としても忙しかった。

 手術で印象に残っているのは、竹崎先生の下肢カウザルギーの腰部交感神経節の手術、帝王切開分娩手術で、その鮮やかなメス捌き、綺麗でスピードあるのを見て、助手をしながら見とれていた。ヘモの美人師団司令の愛人の手術は、パンツを脱がないので小さくパンツに穴を空けさせ、3センチ未満の直径の円形の中で、消毒を完全にしての、鮮やかな内外ヘモ摘除ではかなりのテクニックを工夫されていた。恥じる若い美人には、優しい一面を見た。

(未定稿)

[作成時期]  1988.10

(C) Akira Kamita