(中国医科大学の建設) 8
国民党匪賊(後方撹乱のための遊撃隊)が近隣に出没していたので、ジャムスから一個旅団が討伐に出た。軍医を2名と衛生兵5名の派遣を、医科大学に要請があった。私と松本軍医に5名の日本人衛生兵が派遣された。
1月10日、鶴岡市を通過する部隊とともに出発して、一気に敵の根拠地に進撃した。しかし敵の姿は見えない。逃げたと思い夜間になったが、急追した。それが敵の作戦で、それににまんまと引っかった。峠を越えていたとき、「パン、パパーン」と銃声がして、右方の山手から今度は激しい機関銃の「バリバリ、ガンガン」、小銃の「パンパン、パン」との乱射音。私達は馬車に乗っていたが、慌てて馬車から反対側に転ぶように飛び降りた。
道路の下手は緩い傾斜の草っ原であった。私は指揮を取った「伏せろ、そのまま匍匐して逃げろ」と叫んだ。皆、一生懸命逃げた。ところが松本軍医と佐々木君が浅い窪みに入って動かないので、這い寄ってみると、二人は恐ろしくなって、ブルブル震えて動けなくなっている。仕方がないから私も一緒に窪みの中に入った。すると人影が近づいてきた。三人は声を殺してじっと伏せていた。見つからなかった。暫くすると敵らしい姿は見えなくなったが、暗いのでなおも動かずにいた。満州の厳寒の夜は全身が凍ってしまいそうに冷え込んだ。凍死を免れるため一生懸命堪えた。やがて空が白み始めた。見渡す限り人影は全くない。そろそろ起きあがって動き始めた。
敵はいなくなったのだ。三人は元来た道を引き返した。4キロくらい歩いたところに味方の前哨隊がいた。我々の姿を見て駆け寄ってきた。そして無事を喜んでくれた。部隊は体勢を整えて再度の進撃を開始した。松本軍医と佐々木君はすっかり恐れ怯えているので帰らせて、私と4名の衛生兵が進撃する部隊と行動した。皆に馬と拳銃が支給された。乗馬は初めてであったが、簡単にできて部隊に同行できた。
戦闘で戦死3名、負傷兵15名(重症5名、軽傷10名)、1名は腹部の銃創を受けたが左側即腹から右側腹部にかけて抜け、腹壁を腹膜を残し開いた創で、腸の動きが見える。早速ヨードチンキで消毒して、上下の皮膚と筋肉を縫合しようとしたが、欠損と皮膚筋肉の収縮、腹圧で縫い合わされない。野外でのこと、全身麻酔もかけられぬ。仕方がないのでガーゼを詰め込み縫った。
孫呉市の後方病院に後送した時、また途中で敵に包囲された。銃撃されたが敵の数が少なかったのと、その時一個小隊の護衛兵がいたのや、白昼だったので、私や衛生兵は拳銃を撃ちながら馬橇を走らせたので、一人の負傷者も出ず、無事孫呉市に着いた。病院で全身麻酔の下で再度縫合して任務完了した。
賊を追撃してソ連領内にも入った。シベリアの漁村で一泊した。その夜、綺麗なロシア娘がヌードで私の部屋に入って来た。驚いてその理由を聞くと、夕食後彼女の両親の病気を診てやり薬を与えたので、すっかり喜んだ両親に、感謝のお礼の気持ちからと「お前があの偉くて親切な、ドクターの子種を貰って来なさい」と言われて来たとのこと。私は「キタヤスキーではない、ヤポンスキーだよ」と言っても、彼女は「ハラショー、ハラショー」とベッドの中に入ろうとする。もしセックスしていたことが中国幹部に知れたら、軍律の厳しい中国共産党軍隊のこと、生命の危険がある。私は彼女を部屋から押し出した。ドアをロックして二度と中に入れなかった。ロシア人の父と中国系の混血児の母との間に生まれた二世混血娘だが、金髪で透き通った色白な肌をした、代表的なロシア美人。ビューティフルなフェース、少しグラマーボディのプロモーションのメッチェンだった。
(未定稿)
[作成時期]
1988.10