【登録 2003/08/26】  
紙田治一 遺稿[ 八路軍の軍医時代 ]


(中国医科大学の建設) 9

 この匪賊討伐作戦に従軍して行動した地域は、小興安嶺の北側で黒龍江の流域一帯である。普通ではなかなか見られないか、体験できないようなことに、遭遇、見聞した貴重な記録をここに述べる。

 小興安嶺の鉱物の埋蔵はその種類、埋蔵量は大変なものであろう。石炭は鶴岡市に炭鉱があるが、奥地では1000メートルを越える山岳地帯を行軍した。約120キロの行程である。
 驚いたことに全山が火気厳禁になっている。露頭の石炭、流れる河まで黒ダイヤで蜿蜒ソ連のシベリアに続く、大石炭埋蔵量を持った地方である。500年掘り続けても尽きないだろう(無尽蔵)といわれるそうだ。通り抜けるのに3日間もかかった。
 それを過ぎた日に金坑に着いた。砂金採取であったが、約1キロ平方メートルの谷間は砂金採取の小屋がびっしり建ち並んでいる。谷間全体が砂金鉱区なのだ。金山は上流にあるが、将来金鉱が出来るそうで、現在は無法無政府地帯で、砂金採取に人が群がっているそうである。
 部隊が一泊した日はちょうど旧正月(春節)の前夜であった。街は浮かれ賑わっていた。こんな山奥なのに物資は豊富であった。司令官の指示で旧正月を祝った。ギョーザが作られた。一人一斤の麺、一斤のズゥーロー(豚肉)が配られた。その夜は遅くまでギョーザを作り、また食べた。チャンチューも飲んで騒いだ。
 一睡もせず翌日、午後から敵の逃げた先が判ったとの情報が入って、その夜進発命令が出た。「食糧は5日分携帯せよ」との命令である。ギョーザ、カンピン(干餅――焼き麺、煎餅)を大量に作った(ギョーザは天然冷凍した満州の2月初めだ。煮てから外に2時間も広げて置けば、カチンカチンに凍ってしまう)。後は袋につめて箱にいれ、馬車に積み込んだら万事OK。私は軍医であったから、携帯外科器械を持っていた。
 消毒用アルコールは現地調達、中国には部落ごとに必ずチャンチューの醸造元がある。そこにはアルコール度数70%のチャンチューの原酒がある。それを買って消毒用にするのだ。携帯していた水筒(1リットル入り)に毎朝詰め替えていた。詰め替え前のチャンチューは我らの朝酒用となった。ときには昼食の口汚しとなった。
 黒龍江を乗馬で走った時はスピードと河風の烈しさで、着ていた物が防寒に何にも役立たず、全裸で馬に乗って走っているように芯から凍えた。部隊に鼻尖が凍傷になった兵隊が何人も出た。ヨーチン、リバノールガーゼの湿布である。ガーゼマスクの黄色がめだった。
 医者のいない部落が多かったので、頼まれてローベーシン(民間人)を診療した。お礼にご馳走を宿舎に持って来られるのに閉口した。夕食後なのと、量が多すぎるのだった。宿舎にしている家の家族に一緒に夜食に付き合って貰った。医務室の衛生兵も、すっかり肥えてしまった。

 北満にはノロが多い。毛が長くて皮は防寒用に最適で珍重がられる。行軍していたとき、ノロが向こうに見えた。揚小隊長は射撃の腕自慢だった。射撃自慢の話を聞いていたので、私も兵隊から小銃を借りて二人は小銃を構えた。ノロを狙って一発撃った。見事命中。近づいてみたら、頚と腹に命中していた。私は頭、揚さんは胸を狙ったのだ。皆驚いた。射撃は私も上手だったという話。

 私は日本馬(軍馬の子)の三歳馬を貰ったが、乗ってみてさっぱり調教がしていない馬なので困った。前に馬がいればぴったり着いて行くが、単独ではすぐ止まって遊ぼうとする全くの仔馬だった。敵と遭遇戦の時負傷者が出たので、駆けつけようとしたが馬が走らない。張参謀長が急いで自分の馬を貸してくれた。
 日本軍馬で大きく速い。戦線が近くなり銃声が聴こえると勇み立ち、速度はますます出て来る。止めようとしても止まってくれない。味方を通り越してしまった。このままでは捕虜になってしまう。慌てて私は目の前に迫った大きな樹の枝に飛びついた。鐙は外していたので枝に掴まってぶら下がり、助かった。馬は一散に敵陣めがけて敵中突破。私は負傷兵の所に駆け寄って手当てをした。敵は逃げたので、馬は味方の兵隊が連行して帰ってくれた。
 後で、張参謀長は双眼鏡で見ていてハラハラしたそうだ。私が敵陣に突っ込む姿に、そしてその後、馬が突っ込んだのに。軍医と軍馬は日本軍隊なので勇敢だと思ったそうだ。真相を話したら、腹を抱えて大笑い。
 私の三歳馬も鶴岡市に帰る頃にはすっかり名馬に成長して私に懐いた。司令官はくれると言ったが、飼うことが出来ないのでジャムスに連れて帰って貰った。

(未定稿)

[作成時期]  1988.10

(C) Akira Kamita