【登録 2003/08/26】  
紙田治一 遺稿[ 八路軍の軍医時代 ]


(中国医科大学の建設) 10

 その後大学から派遣され、2回のフーキン市(富錦市)の後方病院に出張した。中国医科大学発行『新戦傷外科治療』のソ連版翻訳医書の説明と講義をして、さらに実技指導に行った。帰りにジャムス市で司令部に立ち寄って、愛馬(田田号)に2度会った。そのとき乗ったが、逞しい軍馬になっていた。軍馬には私の姓の田(テン)を取って、テンテンホー(田田号)と名づけられていた。

 国民党軍遊撃隊匪賊殲滅作戦は完全に勝利して終了した。逮捕された匪首劉山東はジャムス市に連行、人民裁判にかけられて、チャンピー(槍弊、銃殺)された。なお同時に逮捕された敵の特務(スパイ)2名は、民家への掠奪、放火、殺人の残虐行為で、連行して行軍途中に逃亡を図ったため、追跡チャンピー(銃撃死)された。

 2月25日、大学に凱旋帰還して、王学長以下の大歓迎を受けた。
 1947年4月25日、東北解放軍総司令部衛生部賀部長の命令を受け、鶴岡市の中国医科大学を離れてジャムス市に向かった。
 ……これからの前戦への新任務に就くために。
 この巻 終わり

(未定稿)

[作成時期]  1988.10

(C) Akira Kamita