智恵子との出逢い
まえがき
第二次世界大戦の末期、本土決戦を覚悟していた日本に、8月6日広島に、8月9日長崎に人類初めての原子爆弾の投下と、8月9日未明の日ソ不可侵条約の無効とヤルタ協定の実施のソ連満洲国境侵犯奇襲攻撃は、日本の裕仁天皇をして無条件降伏のポツダム宣言の受諾を決定させた。
日本の無条件降伏(1945年8月15日)によって、日本人、特に異国にいた民間人、戦地にいた軍人は、国の保護から投げ出された。満洲にいた日本人は、ソ連軍に侵攻されたため軍人ばかりか、非戦闘員の民間人に多数の死傷者と行方不明者が出た。戦後は軍人や軍属及び官吏の大多数は捕虜として、ソ連に抑留された。民間人の多数は収容所に入れられたり、各地に放置された。軍医や医療関係軍人、看護婦の一部は収容所に残された。
私は臨時野戦病院の要員として、通化市に125名の一員として残され、約150名の傷病兵の治療と、民間人の外来診療の任務を命ぜられた。
1958年の中国在留日本人の祖国に帰国するまで、さまざまの出来事、エピソード、ロマンスがあった。
1946年2月の通化事件(この事件については新通会に別記す)、中共軍の国府軍匪賊(遊撃軍)討伐従軍(別記)、またその他にいろいろなことがあった。(後日思いだしたつど別記す)
1988.10
(未定稿)
[作成時期]
1988.10