【登録 2003/10/10】  
紙田治一 遺稿[ 八路軍の軍医時代 ]


智恵子との出逢い


1 出逢いの日まで


 1947年5月25日、紙田外科軍医は中国医科大学を出発して、前線に出動すべく、ジャムスの衛生部に到着した。
 そこで軟禁中の高田内科軍医に逢った。彼は思想が日本帝国の軍国主義的であるとして、反省の機会を与えると、反省室に入れられ洗脳されていた。
 彼は元満鉄の病院勤務医。軍医になったのは召集されて関東軍軍医となっただけで、マルクス、エンゲルスの本を少し読んでいた。それが災いして民幹とやり合った。言い負かされた民幹が口惜しくて、上部に提訴した結果、衛生部の反省室入りとなった。
 彼、高田軍医はどんな小さいことでも、逆らっては損をすると反省した。この高田軍医と行動を共にすることになった。

 ジャムス市の第四後方医院(日本の兵站病院のこと)に第四野戦軍(林彪総司令)のジャムス衛生部から、南下大攻勢の準備態勢のため、人員の確保、教育(医療学習、思想学習)、資材整備を完了次第、速やかに前戦に出動すべしと、命令が下った。
 ――5月30日に第一所(分院のことで、院長のいる本院院部と医務科が一緒であった)に軍医2名(衛生部待機中の、日本人軍医、外科1名、内科1名)を補充するため、高田内科軍医と紙田外科軍医(主人公)が赴任して来た。東北(満洲)の5月、気候は初夏とはいえ、強い日差しは深緑の葉蔭も何らおそれ憚ることなく、焼けつく道を、馬車に乗って一路病院に走った。
 黒い中国医科大学の軍服(冬服で綿入れ)は暑い、汗びっしょりだ。汗を拭き拭きしていた。約5キロくらい走って、第四後方医院(日本の病院)に着いた(午前11時)。
 高田軍医は40歳の内科医、紙田は24歳の青年軍医だ。だが中国医大助教授の前歴があるので、私が上級者であった。早速院長、政治委員、所長に赴任の面接挨拶を行なった。
 院側では歓迎の宴を準備していた。王外科軍医、陳外科軍医(元国民党の軍医で捕虜となった人)、浅井内科軍医、進藤軍医(手術室主任で元の野戦病院の仲間)、原田薬剤師が紹介された。甘院長、関政治委員、李所長(院長の愛人=妻)のそれぞれの歓迎の言葉に続いて、酒宴が始まった。
 昼食(御馳走料理と蒸し韮餃子)を終わって、病院に案内された。婦長、護士(日本の看護婦、看護士)を紹介され、さらに担当病室と助手となる大迫智恵子護士が定められた。大迫護士は18歳の、やや色白で少し丸顔の、目のクリクリとして、頬っぺが紅く、愛らしく、優しそうな感じの、背のすらっと高いなかなかのビューティフルな女性である。仕事の態度もハキハキしてテキパキと物事を処理する。頭も良い(ジャムス高等女学校卒)この護士と一緒の、次の日からの仕事が楽しそうだ――と思った。
 次の日午前は診療、午後は第二所の幹部と会った。許、竹内、土田内科軍医が紹介されたのであった。

 着任3日目は右大腿部の盲管弾片創の負傷兵の弾片摘出の手術を行なった。術前の処置は大迫護士がした。かなりよくやってある。気分良く手術が出来た。術後も中国人護士達とテキパキとやっている。
 回診の介助も、細かいところにも気がつくようだ。女らしい看護婦だ――と感じた。
 何日かたっての夕方のこと、医局でカルテの記載、翌日の準備を終えて病院を出たところ、院庭に多勢の日本人の護士、看護員、炊事員、雑役員達が並んで坐り、大きな声で歌の練習をしている。中に一人立って、右手を高く挙げて、指揮(タクト棒は持たず)をしている女、よく見ると……なんと彼女、大迫智恵子ではないか。驚いた。彼女こんな才能があるのかと。
 もっと驚く事件が起きた。2週間ぐらいたったある晩のこと、私は自室で医書を読んでいると、学習委員と称する女(牛尾護士長)が、
「先生……日本人女子班で反省会があります。見に来ませんか」
 と、出席を勧めに来た。前の中国医科大学では中国人の反省会には参加したことはあるが、日本人、それも女だけの反省会とは珍しい。よし行ってみよう……と好奇心から行ってみて驚いた。……反省させられているのは、なんと彼女、大迫智恵子ではないか。
 約30人ぐらいの女達に囲まれて、口々にいろいろな質問、詰問、中には声高に罵る女もいる。……が、しかし、彼女、大迫嬢、平然として、顔色も変えず、一問一答ハキハキ応答している。あの優しそうな彼女にこんな一面があるとは。なかなか芯が強い子だ……こんなのを外面菩薩、内面夜叉(おっと、これは言い過ぎかな)、見たよりも気の強い女の子だと思った。

(未定稿)

[作成時期]  1988.10

(C) Akira Kamita