【登録 2003/10/10】  
紙田治一 遺稿[ 八路軍の軍医時代 ]


智恵子との出逢い


2 ロマンスの花は未だ咲かず


 私はなんとなく原田薬剤師と仲良くなった。原田さんは元満軍の少佐で、病気の奥さんと子供さんを牡丹江市の友人に預けて単身赴任であった。薬局に泊まり込みで、食事は院部の、幹部食堂で集まって食べていた。馬が合ったとでもいうのか、気が合ってすっかり親しくなった。
 私は暇が出来ると、よく薬局に遊びに行った。大迫智恵子護士も他の人達と一緒によく来ていた。原田さんは大迫護士に目を掛けていて可愛いがっていた。彼女も父のように慕っていた。

 ジャムスでの1ヶ月余の仕事は終わって、6月15日前線に出動した。任地は輝南街である。さぁ、いよいよ野戦だ。どんな傷病兵が送られて来るか、頑張るぞと皆で話し合ったものだ(当時の日本人は、仕事となると何もかも忘れて夢中になった。もちろん捕虜だとか、抑留されているとかは、問題にしなかった)。敗戦後の日本人で、祖国に帰れぬと観念した共通の気持ちだった。人道的博愛主義に生きることに、生き甲斐を見出していた。
 第四兵站医院はジャムス駅を出発して、一路南下した。
 牡丹江市駅に停車したとき、ホームでソ連人(若い男女)が人目の多いホームの構内で、それも真っ昼間、抱き合って、熱烈なキッスをやっている。日本人はちろん、中国人も驚いて「オーッ」と声を挙げた。だが御当人は平気でさらに強烈なディープキッス、みんなが呆れて見ているうちに、列車は発車した。その話題が切れないうちに、吉林駅を通過、蛟河駅に向かって進行した。
 3日目に蛟河駅に到着した。下車して2日間滞在した。川に行き水浴を行なった。竹内先生は元学生時代は水泳部の選手、私も水泳は得意である。ガヤガヤワイワイ泳いだり、身体を洗ったりしていた時のこと、突然「ウワーッ、凄い、馬並みだ」との大声で、みんなの視線が、調剤員の楊のペニスに集中した。なるほど大きい、御立派な一物である。楊君、面白がって見せびらかす。みんなはしまいにゲラゲラ笑い出した。……その後から彼のニックネームは「楊馬」となった。
 蛟河を出発、(馬車にて荷物を、人は歩いて)目的地・輝南街に到着したのは7月7日であった。
 15日に病院を開設、即日200名の傷病兵(四平街の攻防戦に於ける負傷兵)が入院して来た。
 早期手術、創縁切除、ギプス(有窓)繃帯固定、これがいわゆる『ソ連レニングラード防衛戦における戦傷外科』(中国医科大学翻訳出版、中共軍全軍衛生部推薦、指定)の、戦傷外科治療方針の方法である。外科・内科を問わず、これは「新療法」である、革命的治療法だとして、全軍医はじめ医療人員に、半ば強制的に教育され、実行が強要された。
 連日の手術、ギプス繃帯固定とだいたい一段落した頃、次の傷病兵の集団200名が入院して来る。また連日手術、ギプス繃帯固定だ。
 ギプス繃帯交換のとき、夏のこととて蝿がワンサカワンサカ、ブンブン、膿の臭気を目当てに飛んでくる。蛆が湧く、蛆が創内に潜り込んで膿を餌にする。創面の不良肉芽も蛆に喰われて綺麗になって来る。しかしギプス繃帯は汚くなり、ブヨブヨになってしまう。
 そこで交換が必要となる。その時はあまりに臭いので、マスクは倍以上のガーゼを重ねるが、全然ないと同じだ。臭いのを我慢して交換を終える。入浴も出来ず、せいぜい水をかぶるだけ。臭い匂いは染み込んで体臭になっていた。大蒜を生で齧って、匂いをごまかしていた次第だった。
 我々は李所長、王軍医、陳軍医、紙田軍医の三個治療班と手術室進藤軍医によって治療が開始されていた。手術は毎日続く。手術室のスペースは50坪くらいで手術台3、ギプス台2が配置されていて、午後1時から手術が始まり、4時間、あるいは深夜に及ぶこともあった。
 四肢の手術後は全部といえるくらいギプス繃帯を巻いた。レントゲン技師の田中君はレントゲン器械が到着しないので、ギプス責任者として護士達と一緒になってギプス繃帯を毎日巻いていた。彼はやがてギプス繃帯巻きのベテランとなって重宝がられた。
 私に分担された任務は重症病室担当だった。躯幹の腹部、胸部、四肢(カウザルギーも2人いた)、頭部顔面などの重症で5病室(1病室8ベッド)、そのほか李所長の病室も毎日李所長と一緒に回診すること、皆に手術指導をするなど、一睡もしない日が続いたこともあった。
 全員がよく働いたものであった。こんな時期はロマンスの話題は皆無だった。もちろん、彼女とは顔は逢っても、ただ一片のの挨拶をするだけで、9月の中秋節を迎えた。その頃は約1500名の傷病兵の大半1000名が退院して原隊に復帰して、残る400名の長期治療、100名の残廃障害者となった。

 街にあっては、これまで閉鎖しておった浴場を開設させた。昔の中国では、入浴は贅沢な遊びとされていた、年に1、2回浴場に行ければといわれていた(日本の温泉遊び並み)。その入浴が月2回出来ることになった。みんな臭い匂いは消えた。さっぱりして綺麗になってきたし、心にも余裕が出て来た。ぼつぼつ、ロマンスの花が咲き始めた。
 中秋節を祝ってと、傷病兵の慰問にと、舞台劇を見せることになって、いろいろな劇、歌、踊りとプログラムは大変賑やかであった。私は半喜劇的な中での人間マシンの美男子役、彼女・智恵子はソプラノ歌唱であった。なにしろ目立った。お互いに意識しだしたのはその頃かも知れないが、しかし未だ親しく言葉も交さない状態であった。

 輝南での任務は雪の降り出した10月半ばに終わった。
 その間に、陳軍医は、あまりの厳しい「為傷病兵服務」の指導方針に、元来国民党軍軍医学校出身の軍医少佐、ことごとく反撥して、とうとう9月初めに後方に送還されてしまった。
 9月中旬に元日本軍陸軍病院の衛生兵達10名が、牡丹江市から転属してきて増え、力強い診療体制が出来たなどいろいろあったが、5名の見習い軍医を連れて、賀丁仲医務科長が院部に着任した。
 賀科長は中国医科大学での友人で(第1回卒業生1947年度)、有能な人物である。人材が補充され病院の体制は充実してきた。
 王作民外科軍医はジャムス医科大学で学んでいた。1945年8月は4年生であったが繰上げ卒業した。臨床経験はほとんどなかったが、熱心に学ぶ青年軍医であった。日本語が達者であり、同じ部屋に寝起きしていたので、彼に中国語を「ボポモホ」の基礎から習い、見返りに手術方法など教えた。

(未定稿)

[作成時期]  1988.10

(C) Akira Kamita