【登録 2003/10/13】  
紙田治一 遺稿[ 八路軍の軍医時代 ]


智恵子との出逢い


3 (盤石市――第四兵站医院)


 10月下旬、本院院部の賀医務科長と第二所の土田内科軍医と私は護士10名と共に、別の任務を帯びて、他の人達より早く樺田街に向かって輝南街を出発した。病院はその翌日出発して盤石市に向かっていた。
 樺田街にあった第八(野戦)病院に行き、第八病院の日本人軍医達と共に、原隊復帰と後方移送に分類する作業をしていた。北大産婦人科助教授で召集軍医中尉の明石勝英先生と親しくなったのはその時で、自分の専門外の外科をやらされ、それも若い軍医の下で、すっかり腐っていた先生を慰めるため、毎晩一緒に焼酒(チャンチュウ)を呑んだ。(後日談。私が北大の第一外科に入局するきっかけをつくって貰ったのがその明石先生だった。)
 その間に、弾片摘出やアッペの手術をしたり、不徹底だった例の戦傷創傷治療法(ギプス繃帯固定)の指導をしたりしていた。
 やがて1ヶ月後、第八野戦病院は前戦に向かった。

 我々の任務は終わったので、積雪、吹雪の中を馬橇を仕立てて、自分達の病院が先に行っている盤石市に向かった。
 第一所は元兵営跡を改修していた最中なので、私は第二所(内科)に一時宿舎を割り当てられた。井上、伊藤内科軍医と3人で同室だった。
 井上軍医(日大出)はなかなか面白い人だった。伊藤軍医(東大出)は生真面目な青年だった。3人は毎晩よく焼酒を呑んで夜明かしをしたものだった。護士達がよく遊びに来て、宴会場の様相を呈した。
 内科の患者の中にアッペが出たり、ヘルニアに悩む患者がいた。甘院長、賀丁仲医務科長(中国医科大学の卒業生で私の助教授時代の学生)に私は手術を教えるのが仕事だった。習いたくて仕方のない王作民軍医も手伝いながら、一生懸命見学し、達者な日本語で私に質問していた。

 2ヶ月後、第一所の改修は完成した。私は戻り外科の傷病兵の入院して来るのを待機していた。収容患者数500名と駐屯部隊の外来の診療が任務であった。
 朽木軍医(元盤石市にあった省立病院の院長―外科医)が家族連れで赴任してきた。竹内、高田内科軍医も第二所から転属してきた。
 毎日が忙しくなった。入院傷病兵の一般診療、手術責任者と、外来診療も担当させられたからだ。外来の護士は大迫智恵子と中国人の何桃春護士がついた。
 輝南の後半から仕事にも馴れたので、皆明るく仕事に余裕を持ち出した。技術学習の責任を持たされて、医師介助(医助)と看護婦(護士)の教育を行った。
 共産主義の軍隊であるから、もちろん思想教育は第一に優先していたが、肝心の教師の西本民族幹事が駄目男で、終戦後、撫順政治学校の速成コース出なので、理論、思想ともにさっぱりで、下手に講義すると質問責めにあってまごまごするし、弁証法唯物論では元僧侶の唯心論者との議論で、一言の反論の出来ない始末。
 それで西本は考えた。中国人は歌や芝居で無知な民衆を指導している。中国幹部への手前、中国式の政治思想教育をやっていると称して、自分が習った革命歌詞をプリントして唄わせた。政治学習を歌唱の学習に替えた。出席率は上がり中国政治委員のお覚えもめでたくなると踏んだが、そうは問屋が卸さなかった。西本に転勤命令が出て、いつの間にかその姿は消えた。

 後任は吉原勝民幹が院部に来た。彼、吉原は北支の終戦前の捕虜で(元国鉄の車掌の召集兵)延安の日本人政治学校の速成民幹である。
 病院の方針で傷病兵慰問と病院勤務員の政治文化活動の一端にと演劇が取り入れられた。しかし、吉原民幹は芝居や踊りは解らず出来ないので、脚本、監督を私に、舞踊を河野ステ、野波光子(芸者の娘)に振付け指導を頼んできた。
 元来、興味を持っていたので、総合演劇部を発足の運びとなった。5月1日のメーデーを公演日と決定して起動した。部長は紙田軍医、副部長に河野、顧問に吉原民幹、中国人顧問に王作民軍医(ジャムス医科大学出身)と決まった。出し物は「或る日本兵の思想改造」「中日友好の踊り」とした。中国人の武捷文化教員の演劇部も出し物が決まった。
 夕食後練習2時間で15日間で仕上げた。部長の私の部屋には副部長の河野や出演者が毎晩集まった。酒を呑み、お菜は炊事から特別料理の差し入れで、深夜まで賑わった。


(未定稿)

[作成時期]  1988.10

(C) Akira Kamita