【登録 2003/10/21】  
紙田治一 遺稿[ 八路軍の軍医時代 ]


智恵子との出逢い


7 (功績の公表)


 盤石市は四方を低い山に囲まれた、広い盆地である。吉林市に次いで交通の要点で、人口も10万人以上であったが、比較的落ち着いた市民の生活は、我々をほのぼのさせる街である。
 山裾の畑には野菜、果物が豊富で、山には野草の花も咲き乱れていた。薬草もたくさんの種類がありその量も多かった。原田薬剤師、浜本医助、王軍医、私らは薬草採取と散歩を兼ねて、毎朝早く山歩きをした。畑のトマトは安くて、大きく、よく熟れていて、美味しかった。
 川には鯉、鮒、鰻、山魚、その他の雑魚も多かった。浜本医助は釣り針その他を自家製し、よく釣りを楽しんでいた。多いときは数十匹の戦果を上げた。その晩は朽木先生宅で天婦羅で宴会となった。浜本君は終戦後奥さんが病死した。後には安子ちゃんという可愛い女の子がいた寺田という美人女性護士と仲良くなっていた。結婚は結局しなかったが、ほぼ交際は公認の二人で、寺田さんは安子ちゃんを我が子のように可愛がっていた。

 6月のある一日、ジャムス市の駐屯部隊の李旅団司令が師団司令となって前線に行く途中、私に会いに立ち寄った。一瞥以来の話に花が咲いた。私の馬「「田、田号」の話になった。
「ニーデー、デ(貴方の)『田、田号』は元気だが、ジャムスに残してきた」とのこと。
 会いたがっていたら、「日本軍馬の仔だ、『田、田号』と同じだよ。どうかね、乗ってみないか」と自分の乗馬を貸してくれた。立派な4歳馬で師団長の乗馬らしく飾ってある。私は彼の好意を受けて、早速乗り、さらに走らせた。白衣を着てさっそうとした馬上の姿を見て、皆から驚きと、賛辞の拍手と喚声が起こった。病室の窓から鈴なりになって、患者も勤務者も、「白衣の軍医。馬上姿さっそうと、風を切って駆ける」と叫ぶ。その後、この話題は暫く続いた。

 輝南における任務の功績が公表された。日本人で大功は私と原田薬剤師であった。
 私は患者に対しての重症患者の治療成果、手術成果と手術技術の指導成果、多量の輸血をして救命した(自分の血液200ccを3人に、100ccを2人に合計800ccを患者に輸血した)、勤務態度、特に患者に対する態度が「為傷病員服務」そのものである、上司はもちろん、同僚や部下の信頼が厚いとの理由から一大功に値する。
 原田さんは薬草採取研究製剤にて薬剤不足を補い、治療に大きく貢献、同僚の信頼が厚い、軍医と薬剤の有無、代替薬剤の連絡が速やかで積極的であり、治療功果を高めたとの理由から一大功に値する。
 中国解放軍の功績は大衆討議によって推薦されるもので、小功、大功、特功、特大功の4腫類がある。3小功=大功、3大功=特功、3特功=特大功。
 ちなみに私は中国解放軍から3大功2小功=1特功2小功と抗美援朝医療隊長として特別医療功労賞(特大功)国家表彰を受けている。計1大特功1特功2小功を受けた。
 私の中国解放軍での最終階級は営長級(日本の佐官級)幹部で団長級(聯隊長)の待遇であった。階級は軍服と待遇によって食事区分でされていた。私達軍医はは中炊事(大炊事―尉官級(中隊長)以下、中炊事―佐官級(大隊長から聯隊長)、小炊事―将官級(旅団長)以上に区別されていた)であった。

(未定稿)

[作成時期]  1988.10

(C) Akira Kamita