【登録 2003/10/22】  
紙田治一 遺稿[ 八路軍の軍医時代 ]


智恵子との出逢い


8 (東豊市への移動)


 1948年9月下旬、林彪将軍総司令の率いる第四野戦軍はチャンシュン市(旧新京市)、シャンヤン市(旧奉天市)などの拠点攻略と、全東北地区解放の機が到来した。全軍に命令が下った、我が病院にも新任務の命令が下り、盤石市を離れ前線に移動を開始した。新任務の地は東豊市が第一次の目的地である。
 移動は機敏であった。命令を受けて3日後、盤石市を出発した。2日後東豊市に到着した。しかし戦況の変化から、東豊市から約60キロ離れた街に待機を命ぜられた。その時は急なため、馬車の調達が充分できず、やむなく馬車には荷物だけで、人間は全員歩いて目的地まで行くことが、院部から命令された。
 男女を問わず軽装で歩き出した。朝6時出発して翌朝8時に目的地に到着すべしとの命令が出ていた。1時間10キロ歩いて15分小休止4回、30分小休止2回、食事は3時間(仮眠を含めて)大休止2回、の行軍である。
 男性には比較的楽な行軍ではあったが、女性には強行軍であった。行軍編成は軍医1名に男護士5名、女護士5名、看護員(看護補助者)男5名女5名、警備兵、事務、雑役、政治員等で、約40名を一排(小隊)として、一所は5排に二所は4排、院部は二排に分けた。
 総指揮は甘院長、副指揮は関政治委員、各所の指揮は所長、政治員が取り、各排の指揮は軍医と警備班長が取った。各所、各排の強歩運動競走の様相を呈した。私の排と王軍医の排とが先頭を争った、2つの排は途中は競り合ったが、ゴールは仲良く一緒にした。
 大迫智恵子は王軍医排であった。息を弾ませて、顔を真っ赤にして、大汗を掻きながら私の排に負けまいと、一生懸命歩いていた。
 私達は盤石での山道の散歩が効いたのと、毎日のポープー(駆け足)――中国解放軍は起床後必ずポープーを30分ぐらいする――を私は必ず完走していたので、歩くのは平気であったが、彼女達はポープーはいつも半分か、見ていたくらいだったから、さぞ応えたことであろう。

 到着した部落は連村で一つの街をつくっていた。私達の病院は、3個部落に分散して宿舎が割り当ててあった。私は、比較的大きな農家の1室が診療室兼宿舎であった。
 到着して2時間もすると、靴ずれの患者がどっと押し寄せた。こちらは休む暇なく、靴傷の手当てに追われた。ヨードチンキで消毒し、ヨードチンキに浸した糸を水泡に通す、後はガーゼに包帯をして終わって、「はい、お次」という具合で、またたく間に30名ぐらいの治療は終了。それから、炊事からの特別献立差し入れで、護士達と焼酎の一杯の昼食になった。

 ここにいた間に、野戦病院で一緒だった近藤武雄君が近くの部落に、我々と同じく宿泊しているとの情報を得て、早速会いに行った。
 近藤君は相変わらず元気で明るかった、2年間のお互いの無事、健康を喜びあい、その晩は祝杯を上げた。帰りは警備兵に護衛されて帰った。

 約1ヶ月滞在していたが、発疹熱が流行した。私も感染して39度以上の高熱が5日間続いた、しかし熱が下がるとケロッと治り、すっかり元通りの健康を回復したが、診療室が病室になってしまった。その後は病室の軍医、護士の詰所と看板が変わった。宿舎ももちろん移転してしまった。

 戦況は進展して東豊市に再度移動した。今度は全員馬車に乗ってののんびりした移動だった。東豊市は盤石市に匹敵する交通の要点で、大きな商家や地主邸宅が多かった。私の宿舎は焼酎の醸造元であった。軍医と男性護士が割り当てられたのである。喚声を挙げたのは私ばかりではなかった、酒飲みはみんな大喜びだった。

 病院開設の準備はしてしまったが、傷病兵が来ない、大きな戦闘がないのだ。暇なので、政治部の指示で、中国人達の思想教育(学習、担白会)が始まった。
 日本人も吉原民幹の指導で担白会(反省会)を真似てやることになった。
 自分の出生から現在までの経歴、中国人に対してどんなことをしたか、また中国や中国人をどんな気持ちで見ていたか、現在解放軍、中国共産党に対してどうであるか。これらがテーマで、学習の資料として日本語に翻訳した冊子、中国語の本は私の通訳講義で進められた。
 中国幹部の担白会にも参加した。激しい下部からの攻撃、罵声飛ぶ中を、幹部は馴れたもので平然とした態度、静かな言葉で返答している。下部の人達は言うだけ言ってしまうと、これまたケロッとしている。これは学習だとのこと、初めて見た日本人は喫驚した。以前の日本では考えられないことだ。

 原田薬剤師の奥さんが危篤だと連絡があった。原田さんは悩んだ。自分だけでは牡丹江市へは行けない。その姿を見て、私は院部に行き、賀医務科長と甘院長、関政治委員に頼んであげた。2人の警備員が牡丹江市に同行することになった。原田さんは喜んで出発して行った。

(未定稿)

[参照]
 1988.10

(C) Akira Kamita