【登録 2003/10/22】  
紙田治一 遺稿[ 八路軍の軍医時代 ]


智恵子との出逢い

9 (担白会)


 東豊市に於ける学習組織の初の日本人担白会の幕は切って落とされた。
 方法として、本人が反省文を書いて、それを全員の前で自分が読み上げる。終わったら質問する、それに答える。その後は全員から意見を出す、自分で反省した事実と今後に対する決意をとを述べて終わる。全員それぞれ終わったなら、学習委員長が総括して結論を述べる。吉原民幹が講評して終了する。
 真面目にやった者もいたが、ほとんどは自分をドラマの悲劇的な主人公に仕立てていた脚本の発表であった。質疑の質問のやり取り、意見の提出は、相手の感情を考慮していた、慎ましく遠慮がちなものであった。また時間的に制限があったので、反省文の読み上げだけで大半は終わった。それでも日本人の過去にない画期的な出来事であった。民幹の講評も90点の出来と褒めた。

 反省文の中で、
――自分は貧農の家に生まれ育った。だから開拓移民になったが、何も中国人に悪いことはしていない。自分も日本帝国主義の中国侵略者(資本家、軍国主義者)の犠牲者である。
――軍隊に入り、中国侵略の手先にさせられたのは、軍隊に入らないと非国民となるから仕方がなかった。中国人を殺したり、中国人から徴発や掠奪したのも上官の命令でやったことであり、上官の命令は大元帥(天皇)陛下の命令と思えと言われていたから、心ならずも従っていた。だから軍人も犠牲者だ。
――中国人(満洲国での日本帝国主義者の協力者のこと)と仲が良かった。中国人の家によく遊びに誘われご馳走になった。だから私は親中国者だ。
――終戦前から私はチャンチューをよく飲んでいた。餃子を大蒜入りのたれを付けて食べることが好きだった。中国人客の入っている料理店によく入った。だから親中国者だ。
 こんな迷論も多かった。
――終戦時、中国人に救われた。それから中国人が好きになった。
――以前は中国人は日本人が敵だと言っていたので近づかなかった。
――体臭の大蒜臭が嫌いだったので近づかなかった。
――今は何とも思わない。今では中国人が、中国共産党が理解できて好きになった。
 オベンチャラを真実らしく言っていた者。
 なかには悲劇のヒロインにして涙を誘う試みをした者。ひどいのはメロドラマにして語った女性護士が2人もいた。真実かどうかわからないが、ソ連兵に強姦された女性が1人いた。
 若い娘が露助に無惨にも凌辱された、男性は皆怒りに震えた。しかし女達は「ああ、いつもの癖が始まった、あの子、また他人のことを自分に置き換えて話している」とくすくす笑っていた。
 女の話は、男に犯された、犯されそうになったが、私はどうして免れたか、それがソ連兵であったり、軍国主義者の手先の憲兵だったりする。あったかも知れないが、ほとんどが他人の出来事や聞いた話の受け売り話であった。

 大迫智恵子もご多分に漏れずだった。彼女は悲劇を二つダブらせて、聞く者の気を引いた点、かつて文学少女だった名残りがあった。

 自分を、過去はさも戦場では勇猛果敢な軍人だったと勇者に仕立て、今は後悔、反省しておとなしい人間に生まれ変わっているから、よろしく。だが本来の自分は猛者だということを忘れずにいて下さい。――これでは反省じゃなくて、自己アピールか脅迫だ。フィクション、創作、ノンフィクションありであった。

 こんな暇潰しの担白会を早々に終えたのは、前戦への移動が10日後に決まり、準備にかかって全員部署に着いたからだ。

(未定稿)

[参照]
 1988.10

(C) Akira Kamita