【登録 2003/10/23】  
紙田治一 遺稿[ 八路軍の軍医時代 ]


智恵子との出逢い


10 (ふたたび前線へ)


 友軍は長春市を陥落させた。全面攻撃は審陽市と全東北地方だ。我々は白城子を経て、審陽市の西方に病院を開設せよとの命令を受けた。
 今度は貨物列車の移動である。最後の足掻きの敵機は間断なく襲って来る。所々に停車しながら列車は進んだ。
 ある駅を人間だけが下車して、食事と休息のため市街に向かう途中に、敵戦闘機2機に襲われた。機銃掃射には、全員偽装しながら遮蔽物と遮蔽物を目がけて、その間を敵の目を避けながら走って進んだ。幸い一人の負傷者もなかった。だが盲撃ちの機銃掃射で民間の子供が殺された。

 次は熱河省に入った。砂丘が連なっていたので、下車して会議を開いていた。そこへ空襲だ。軽爆撃機1機と戦闘機1機で襲ってきた。
 最初、軽爆撃機は駅の列車に機銃掃射と爆弾を投下した。戦闘機は人間の姿を見つけて、機銃掃射をしてきた。爆弾は砂漠なので不発、我々に対する機銃掃射は、砂丘を遮蔽物に素早く移動して避けた。
 敵機が去り、駅に戻り、被害を調べた。機関車は2発、機関砲を被弾していて、車輪を半分削り取られていた。貨車は被弾していなかった。爆弾は砂の中に10メートルも潜って不発、急いで車輪を取り替えた。発車するまで全員砂丘に避難していた。

 列車は空襲を避けながら、任地に到着した。敵に散々荒らされ、また爆撃されて、すっかり荒廃していた。審陽と錦州の中間地点である、激戦は当然予想された。
 破壊を免れた家を病院にした。全市城内が病院で、各所を点在して配置したのである。
 第一所は手術室と重症病室は軍医、護士の宿舎を近接させ、その他は1000メートル以内にあった。負傷兵は連日昼夜を問わず5人、10人、50人と後送されてきた。24時間体制で手術が続いた、重症病室が足りなくなった。破壊された民家を急遽改造して病室を増やした。第一所は100名を収容した。第二所は50名を収容。計150名になった時、審陽は陥落した。それは1948年12月初旬だった。

 頭部盲貫銃創の負傷患者が3名入院した。そのうち1名は国民党軍の将校だった。ゾンデで弾丸が触れたので、開頭して弾丸摘出を行って、そのうち2名は死亡したが、1名は助かった。ギプス固定包帯開窓法をして経過は良かった。

 急性腹症、腸穿孔性腹膜炎で死亡した患者を病理解剖して、腸管内に大小135匹の回虫が寄生していたのには驚いた。

 宿舎の隣の老人が、膀胱結石で苦しんでいた。ネラトンカテーテルを入れて見ると、尿道に尖端が入り込んでいる。レントゲンで見ると、長さ8センチで、太さは直径3センチ程度の結石であった。泌尿器科器具がないので食用油を加熱滅菌して500cc膀胱に注入し、患者に下腹部に力をいれて排尿させ、膀胱内の結石を排出させた。


 1949年の新年は後方に負傷兵を転送し終わって迎えた。ヤンガー、高足踊りで勝利の新年を祝った。大迫智恵子は支那服を着て化粧して踊った姿は、他の女達より綺麗で、艶やかだったし踊りも巧かった。

 1月3日に北京目指して進発南下を始めた。全員馬車か徒歩であった。「万里の長城」の「天下の関」門を通り抜け、山海関城、通州市を通過して、北京に近い玉田街に待機した。春節をそこで迎えた。
 北京は無血開城した。北京市城外を行軍して糖山市に到着した。第四野戦軍衛生部の功労者表彰。私の宿舎で智恵子と初めてのキスをした。

 天津市より運河を舟で南下、臨清市に。大黄河を渡り鄭州に到着、郊外の部落に滞在、南方地方病の学習をする。中国人民解放軍の第四野戦軍は東北地方で編成された軍隊である。軍医も南方の伝染病には知識も薄く、経験もない状態であった。

 南下、武漢市に到着。揚子江の渡河。ハンチョン市にて傷病兵収容、第一所分院長勤務。
 沙市で揚子江渡河、洞庭湖の西岸を行進、安江街に待機。崑崙山脈を越え桂林市、南下、柳州市に11月到着、病院開設。


(未定稿)

[参照]
 1988.10

(C) Akira Kamita