(紙田家について)
3 (父の兄弟たち)
私の父は明治21年に紙田家の長男として生まれ、五一郎と名付けられた。兵役は甲種合格籤逃れであったので、18歳から20歳代は北海道や北朝鮮の沿海洲に漁場を求めて、家の半数の漁舟を持ち出していた。漁師達に利潤分配を優先して、自分には利潤を残さなかったので欠損になった。
金石の漁師達の信望の厚かった祖父・五右衛門は漁業組合(はしけ組合)の組合長に祭り上げられ、自分の持ち舟は全部組合に出して大株主として、給料なしで株の配当だけの無料奉仕であった。そのため、実質的には漁師達の懐具合を良くするだけになってしまった。
私の父・五一郎はそれから、漁業から手を引いた。
祖父の五右衛門は名題の豪酒家であった。組合長5年目の大正7年、脳卒中で急死した。
長男・五一郎は次良介と改名して家督を相続した。次良介は大正5年から、金沢駅の専属運送業と駅前に飲食店を経営していた。金石の組合の株は半分お金に替えて、次良介は祖母に株の半分と現金を渡した。
祖母は金沢に娘3人と4男とで一戸を構えた。私の家とは500mぐらい離れていた。
長女・五月は洋服仕立て業の後継者と結婚させた。
次女の要は料亭に養女の予定で見習いがてら通っていたが、要は東京の野崎家(叔父)に遊びに行き、そこで野崎与吉の後輩の工業学校(現在の千葉工大)出の沼田要助と知り合い、要助と要の二要が縁となって、二人は恋愛関係となり結婚を約束した。
沼田要助が中島知久平達と飛行機の製作を開始した2年後、要は料亭の養女を断って上京し結婚した。夫婦には子供が生まれず、養子の和一を貰って育てた。当時は金沢ではシャンなモダンガールのローマンスと噂をされたとのこと。
四男・直吉は叔父の野崎与吉が技師長を勤める日本光学KKに就職して、夜間工業学校に通い、苦労していた。満足に食事する時間もないため、栄養が不足し身体を壊した。
直吉は今度は浅草のお慶寿司に住み込んだ。食べ物商売は見込みがあると考えた。結婚後に独立して屋台から始めた。長女・松海が誕生前に病死した。その後、一軒の店を渋谷の幡ヶ谷に持った。松海寿司がそれである。
今では長男・直道が社長で本店寿司と割烹と宴会場と支店・松海寿司2店と蕎麦処加賀を有している。
三女・綾子は金沢の女学校を卒業後、富山県の木越重と結婚して、東京の高田の馬場の近くに乾物屋を開き繁盛した。現在、長男・重義はマンションを建設して家主となっている。
次男・五次郎と三男・五三郎は金石出身の安宅弥吉の奨学生となり、商業学校を卒業後、安宅商事に勤めたが、五次郎は平凡なサラリーマンに満足せず、辞めて、自分で貿易会社を造った。順調にいき一時は大した羽振りだったが、専務に大金を横領され会社は倒産した。
その後、野一色式低周波治療器の研究開発に協力して完成し、自分で野一色式研究所の所長になったが、兄・次良介(私の父)の病気で治療のため金石に滞在していたため、噂を聞いて患者が治療を頼み、その数が増えてきていた。次良介の死亡後は東京に帰らず、金石で野一色式研究所所長兼治療院の院長をやっていた。
終戦後は東京に出て、大田区羽田空港近くに住み、野一色式研究所と治療院をやっていた。
三男・五三郎は規約の年数、安宅で勤めた後、名古屋の日本硬質陶器KKに勤め、貿易課の課長になったが、脳梅毒になり、妻に娘が2人いたが離婚し、実家の長兄のもと、私の家に帰ってきた。謡が上手な人だったが、病状は一進一退して2年後の1月22日早朝死亡した。
祖母は1年後の2月、台所で味噌汁を作りながら脳出血で死亡した。異母弟の野崎与吉や子供達、孫達、親戚に加えて、使っていた漁師達が大勢葬儀に集まった。金石でかつて見られぬ盛大な葬儀であった。死亡時間は昭和11年2月23日午前6時30分だった。
父・次良介は昭和13年5月31日脳血栓となるも、やや好転したが、昭和14年2月22日52歳で腎不全を併発して死亡した。
(未定稿)
[作成時期]
1989.01.13