(生い立ち)
4 鶏頭を目指して、一歩前進
私が小学6年生の時、安宅の奨学生にと推薦された。父に相談したら、にべもなく駄目だと言われた。
理由は、「安宅に利用されるだけだ。お前は学校の先生になれ。師範学校に入れ。中学は県立一中に入れ」との厳命、それまでのんびりしていた私は、慌てて受験勉強に取り組んだ。
1年間寮生活の後、通学していたが、父が昭和14年病死したので一中を4年で中退した。その後、早稲田中学通信教育を受けて、翌15年に専験(大験)を合格して専門学校か高等学校への受験資格を取った。
昭和15年4月から、金石信用組合にアルバイトながら預金係長として勤めた。
昭和16年12月、名古屋陸軍造兵廠鳥居松製作所に徴用された。徴用令が来て東京・奈良・橿原・大阪・京都の旅行に出た。
昭和16年12月8日の朝、大東亜戦争の宣戦を、要叔母さんの荻窪・沼田家のラジオで聞いた。その日、東海道線の汽車は敵の爆撃を警戒して暗闇列車だった。
予定通り旅行を終えて12月25日、名古屋の鳥居松に着いた。徴用工員は全員寮に入って、配置された工場に見習いとして通った。鳥居松製作所は九九式小銃と拳銃を製作していた。
私はプレス、やすり研磨の見習いに2週間通った。仕上がると硫酸の液で洗浄する作業が、見習い徴用工員に押しつけられていた。硫酸ガスで呼吸が出来ないぐらいになる、人の嫌う仕事だ。硫酸液の飛沫は飛び散り、服はもちろん手足を焼いた。
私は考えた。同じ国のためなら自分の才能を生かしてやれないかと。早速調べると、事務筆生の試験にパスすれば、3ヶ月で事務判任官になれることがわかった。
すぐに本部に行き、試験を受けたいと申し込んだ。試験は私にとってはなはだ簡単だった。
合格して第三工場の事務室勤務となった。仕事は医務掛であった。部隊付衛生下士官である。工員の健康管理、傷病工員の所内病院への入院、通院手続き、通院者の引率、傷病手当の請求事務、支給金受領、個人に支給(手渡し、郵送)、医師の傷病工員治療の助手、医務掛の各作業統計が仕事だった。
掛長は元衛生軍曹・大関君、係員は私と元衛生伍長・水野君、補助事務整理工に元衛生兵長の永井君と明治大学出の加藤君と女子筆生・青木(女学校新卒)、中島(女学校新卒)、久世(女学校卒後1年)、高木(女学校卒後2年)、足立看護婦(2年目)がいた。
係長・大関さんは妻子のある人。水野さんは新婚ホヤホヤの癖に、美人だと、相手にされないのに盛んに機嫌を取るような女好きの男。永井さんは遊び好きな人で、恋愛中の彼女は名古屋市内の玉突き屋の看板娘さん。私は永井さんに連れて行って貰って紹介されたが、素晴らしい美人で、永井さんと似合いのカップルだと思った。よく聞くと、二人は結婚前で既に同棲生活していた。
加藤周八郎さんは名古屋市の大きな材木屋さんの一人息子さんで、兵役逃れに兵器廠に就職したが、明治大学を6年かかって卒業した遊び人で、名古屋の実家には日曜日だけ帰る。その他の日は下宿で名古屋の芸者が交替で彼の世話をしていた。仕事はさっぱりしないで、宴会の幹事の方が好きで、彼が費用を全部持ちの宴会を月に2回計画する男だった。お金はもちろん親から全部出ていたから、彼のやる宴会はお大尽遊びだった。本部の所長、庶務課長、掛長、工場長、掛の一同でいつも10人以上の宴会が多かった。
私は傷病手当係と医師の助手を主な仕事としていた。傷病手当の仕事は月に3回6日くらいで、あとは全部医師の助手をしていた。若い名古屋帝大医学部出の松井軍医中尉の専属助手になった。松井さんは週2日は母校の外科の医局に通っていた。
また松井さんは私に外科治療や簡単な臨床医学を教えてくれた。6ヶ月後には松井さんの留守の2日間は、重症を除き普通の怪我は私に治療が任されるようになった。
(未定稿)
[作成時期]
1989.01.13