【登録 2003/11/20】  
紙田治一 遺稿[ 家系と生い立ち ]


(生い立ち)


5 (医師への道を切り拓く)


 私は陸軍判任官筆生になって、生活も、寮内生活から下宿生活へと変わった。
 日曜日や祝祭日にによく旅行をした。名古屋市内や岐阜市、伊勢や奈良、大阪、京都に遊びに行った。
 配給品もチケットが普通の工員の2倍になった。酒も上級酒が配給されたので出征壮行会に持参して、幹事を引き受けていたものだった。
 守衛の正門の持ち物検査はもちろんなしであった。だから、ときどき、寮内の親しい工員の買物を頼まれた。
 私は専験(現在の大験)をパスしていたが、必須の軍事教練の時間が足りないので、所内の青年学校に編入して、貰った。
 毎週土曜の午後、柔道、剣道、射撃の練習が軍事訓練であった。剣道初段、柔道2段、射撃上級になっていた。
 もし試験を受ければ兵科(歩兵)の見習士官、少尉へとなれる道があったが、軍医ならなりたいが、その他の兵科は、近視なのと、好きでないのと、陸軍兵器廠造兵廠にいるので、兵役は志願でもしなければ、20歳まで兵役に服する必要はなかった。もちろん、学徒入隊しての幹部候補生の試験を受けるつもりはなかった。

 だが、昭和18年4月に関東軍の委託軍医学生公募があり、その試験を受けて、合格の通知が5月1日に届いた。
 19年1月15日に新京市の関東軍司令部衛生部に集合するように決まっていた。
 その年の5月25日、石川県松任町で、徴兵検査を受けて第一乙種合格となった。
 徴兵官に希望兵科はと尋ねられ、「陸軍軍医です。関東軍の軍医委託学生に合格して、来年1月15日に渡満します」と答えたら、徴兵官は「軍医は医大か医専を出ないとなれない」と言ったので、「4月に関東軍の軍医委託学生の試験に合格しています」と再度答えた。
「これから医大に入るのは、兵役猶予ができないと難しい。まず関東軍に現役で入って上申した方が早い。特に年内に入隊できるよう記載しておこう」とのこと。
 それで関東軍に入営が決まった。
 12月20日に広島に集結して、博多から玄海灘を渡海して釜山に上陸して、渡満してノンジャンの歩兵聯隊に入隊した。
 しかし、1期の歩兵訓練が終わるまで上申は出来なかった。(最初のノンジャンの歩兵部隊は3月に南方に出動したので、ソンゴー(遜呉)の歩兵部隊に移され、1月訓練を受けたため)
 4月15日、原隊であるノンジャン陸軍病院へ復帰した。直ちに上申したが、司令部に問い合わせると、時すでに遅しで、委託学生が集まらず今年は延期になっていた。しかたなく2期の衛生教育を受けた。陸軍の判任官(下士官)で衛生兵であった。
 19年6月10日、衛生兵長で新京の蒙家屯の関東軍衛生幹部教育隊へ派遣され、入隊した。教育隊では衛生下士官教育と軍医教育(軍陣医学教育)を特別に並行して受けた。
 軍医教育の教官はそうけ島寿一軍医中尉が1対で教育に当たった。
 8月15日に見習士官となり、ジャムス医科大学に派遣されて2年生に編入学が決まっていた。
 8月9日、ソ連軍の満洲進攻、15日敗戦、終戦となって、医科大学の教育を受けることが出来なかった。
 だが学籍はジャムス医科大学の2年生であった。

(未定稿)

[作成時期]  1989.01.13

(C) Akira Kamita