【登録 2003/09/19】  
紙田治一 遺稿[ 関東軍衛生幹部教育隊 ]


関東軍衛生幹部教育隊 1

 昭和20年6月10日、関東軍衛生幹部教育隊(新京、蒙家屯)に、全満洲の主要衛生幹部(軍医候補生、衛生士官候補生、衛生下士官候補生―関東軍の衛生幹部(昭和20年度後半)要員教育のため―)が集結した。その数600名の若き爽々たる健児の集い、その意気たるや甚だ盛んなり。
 高度にて即戦的な軍陣医学教育、猛烈な実戦戦闘訓練、強健な体力作りの体育訓練、戦陣訓を超える関東軍の軍人精神の鍛錬などなどが連日連夜強行して続行された。
 午前中は軍陣医学、指揮官としての実戦即応の戦術の講義と実習。午後は配属の陸軍士官学校出の張り切った、血気盛んな若手の歩兵将校の指導による実戦戦闘訓練であった。
 実技演習では夜襲攻撃と肉弾斬り込み作戦、特に対戦車攻撃は重要視された。例えば教官が、
「今、敵戦車群団が目の前に近接してきたら、どうして攻撃するか。各自判断して、完全に撃破する、指揮者としての行動を示せ」
 と問題を提起する。
 たいていの者は全員で手榴弾投擲後、敵戦車のキャタピラの下に破甲爆雷を差し込み、待避する動作を行ってみせるのだった。
 私は手榴弾投擲後、破甲爆雷を抱えて敵戦車の前に飛び込み、そのまま座り込み、爆雷と共に自分が爆死する肉弾戦法を示した。
 教官は、
「実際の戦場では戦車には、必ず後ろに歩兵がついているものだ。こちらが破甲爆雷を差し込む前に撃たれて目的は達せられぬ。破甲爆雷を抱えて一人爆死、一台爆破でなけねば絶対に成功はしない。彼の取った行動は正解である。諸子は死を鴻毛より軽しと考えて、これからの実戦訓練をやれ」
 と叱咤した。

 24時間の不眠強行軍は炎天下の中で行われた。重装備に乾パン、水筒には薄塩味の湯冷まし、それで歩く、駈ける、葡伏前進、突撃を繰り返す。隊伍を整えて正門を無事に通り、帰りついた者は3分の2で、残り3分の1は三々五々で遅れるか、または落伍していた。
 夕食後、体育である。ほとんどが実戦に役立つ対抗競技が行われたが、その頃日本では珍しいサッカーも含まれていた。
 夜は精神講話で幹部軍人、特に指揮官の心構えを講話した。自習はどんなに疲れていても絶対居眠りは許されぬ。一人でも居眠りすれば、全員机の上で正座して30分教科書を読ませる、このような厳しい連帯責任罰を取らされた。
 ちょっと気を緩めることも、油断も出来ない。竹刀を持った下士官の助教が常に目を光らせていてポカッとくる。だから消灯までは緊張の連続である。
 このようにして若者達は逞しく鍛えられ、日増しに関東軍衛生部の中堅幹部候補らしく成長した。

(未定稿)

[作成時期]  1989.2.13

(C) Akira Kamita