関東軍衛生幹部教育隊 4
集合地点は、迂回して元の集結地点である。私のほか6名が集まった。待つこと2時間、5時となった。後は一名の生還もいない。戦死か、負傷かは不明であるが、ぐずぐずしてはいれない。撤退と決定、行動開始。牡丹江を目ざして前進だ。
橋は渡れぬ、泳いで渡河だ。昨夜来の豪雨で牡丹江は濁流、河幅も2倍以上で約800メートル以上はある。さあ、いよいよ渡るぞ。すると突然、「隊長殿、私は泳げません」 と哀れな悲しげな声。見ると、一人の上等兵が軍衣も脱がずに立っている。
「なんだ、貴様は泳げないのか。安心しろ。俺は浜育ちで、泳ぎには自信がある。お前を連れて行ってやるから、心配するな」と皮帯(バンド)を連結して二人の肩に回して、「さあ、行くぞー」 とザンブと濁流に飛び込んだ。
流される……流された。対岸に着いたのは4キロの下流であった。早速軍装を調えて人員を点検した。異状なく、全員無事であった。1個少隊の生存者は僅かに7名である。
夜はすっかり明けている。新京に向かわねばならない、7名は西南の方角を目ざして、前進、前進、黙々と歩いた。約10キロぐらい進んだ。小部落が前方に見えたが、全く人けがない。入っていくと日本人の開拓団であった。皆、逃げたのだろうか。何か食べる物は残っていないかと探したが、畑の野菜しかない。我々は大根を抜いて来て食べてながら部落を出た。
その前方にトラックが6台放置されている。おそらく故障で友軍が放棄したのだろうか、それともソ連機に攻撃されてトラックを離れたのかと近づいてみると、ガソリン(代用で90%アルコール燃料)がドラム缶が1台に4本積んである。もちろん、エンジンは故障しているか機銃掃射で損傷しているかだ。
その時突然、「隊長殿、私は自動車隊です。簡単な修理ぐらいは出来ます」と金槌で泳げず、私が一緒に連れて河を渡った、かの上等兵が言い出したのだ。なんと幸運。早速彼に調べさせて修理をさせた。工具が積んである車が見つかった。彼は上手だった。いい腕をしていた。
1時間ぐらいでエンジン始動、燃料を集めて全員乗車して発進。新京目指して飛ばした……。
12日午後6時頃に新京の関東軍司令部に到着した。
衛生部に行き参謀に詳細を報告して、私の任務は終了した。部下の6名を司令部に残し別れを告げて、司令部の自動車で送られ、衛生幹部教育隊に無事帰還した。
本部で軍衣を着替えて、内務班に戻りそっと自分のベッドに潜り込んだのは、午後11時30分であった。
(未定稿)
[作成時期]
1989.2.13