【登録 2003/09/21】  
紙田治一 遺稿[ 関東軍衛生幹部教育隊 ]


関東軍衛生幹部教育隊 5

 1945年8月13日に関東軍司令部の衛生部から、
「14日までに新京を出発して、永久陣地の遼寧省通化市に到着せよ」
 と、南下の命令が下って、直ちに準備を開始した。
 兵器廠に行き、武器庫にある軽機関銃、軍刀、弾丸を受領しに武器庫に入って驚いた。不足しているといわれていた各種兵器がたくさん、山積みになってある。100以上の武器庫には優に1個師団分は軽く格納されていた。次は糧抹廠に行って米(60キロ入り)1000袋、缶詰1貨車分、乾パン1万2000袋、日本酒1200本、甘味品1貨車分を受領した。
 直ちに貨物列車に積み込みを開始した、30輛の貨車に全て積み込みが終わるまで2日2晩かかった。1個中隊の警備では足りないので、教育隊から交替で1個中隊が警備を応援した。
 満人が夜、群がって掠奪に来た。銃撃はその群に加えられた。それでも鉄条網を乗り越えて来る者は刺殺して防御した。夜が明けて死体が多数見られた。銃撃で死んだ者は分からぬが相当の数に上るだろう。満人達は警備が堅いのでそれから来なくなった。
 やがて積み込みは完了した。機関車と貨物列車に石炭は揃っているが、満鉄の機関士が不足でここには一人もいない。
 教育隊内で機関士の経験者を探した、私の戦友・石橋健君が経験者(満鉄の機関士)なので、本部の幹部に頼まれた。彼は釜焚きの2名を指名して運転を開始した。我々は糧抹の上に乗って警備を交替しながら、新京を発車したが、石橋君、なかなかの名機関士ぶりの運転だった。

 新京駅で鈴なりに乗って避難する民間人の貨物列車とすれ違った。
「兵隊さん頼みますよー」の声に送られて、列車は四平駅に15日着いた。
 終戦はそこで知ったが、列車は命令通り一路南下し通化市に17日到着した。
 関東軍は長白山脈の永久陣地で10年間は戦うのだ。露助なんか目にもの見せてくれん、見事蹴散らしてやる、司令部の参謀達の間では侃々諤々と議論がなされた。
 しかし、結論は、徹底抗戦取り止めとなった。

(未定稿)

[作成時期]  1989.2.13

(C) Akira Kamita