【登録 2003/09/21】  
紙田治一 遺稿[ 関東軍衛生幹部教育隊 ]


関東軍衛生幹部教育隊 6

 関東軍司令部命令(既に司令官・山田乙三大将は逃げて通化市にはいなかった)。
「朝鮮人の兵と満洲に家族のいる者は、現地除隊して自由に行動すべし」
「他の兵は南下して朝鮮経由で日本内地に帰還すべし」
「関東軍衛生幹部教育隊は、柴田久軍医大尉以下125名を残し、通化市及び周辺の傷病兵と民間人の医療に尽くすべし。他の者は朝鮮に南下すべし」
 と有無を言わせず、私達は残留させられた。
 貨車に積載した食糧は支給されず、「現地の永久陣地の倉庫より、食糧、その他は3日以内に運べる限り運ぶこと」の指令だ。ソ連軍が18日に進攻して来る、それまで出来るだけ運べということだ。トラック5台を入手して10キロぐらい離れた倉庫に行き、運んだ、運んだ。1人が2人分の力を発揮して、20日に運搬がソ連軍に差し止められるまで運んだ。

 元通化高等女学校跡が病院になった。傷病将兵が集められ入院してきた。2階に収容して診療に当たった。講堂は集会場兼娯楽室に充てた。階下は我々の宿舎と事務室、外来診療室、薬室、手術室、倉庫、別棟を炊事とした。
 当時、通化市には赤痢が大流行していた。入院患者も重症赤痢が大半を占めていた。
 外来は繁盛したが薬品の不足が悩みの種だった。おおばこ、どくだみ、はこべの野草を採取して漢方薬として使用した。その他解熱剤に蚯蚓が集められた。
 アルコールは燃料用の90%アルコールは飲用禁止になった。葡萄酒製造工場から未熟生ワインが運ばれて、アルコールを添加して赤酒として飲用に供された。トラックの燃料アルコールは充分確保してあった。やがてソ連軍にトラックが1台を残して、残りは全部没収されて、余ってきた燃料だけが飲み代に残った。
 重症赤痢患者は次々と戦病死していった、最初は山のところに埋葬したが、住民の反対から、校庭の防空壕跡に埋葬した。
 その間、ソ連兵が日本人婦人を強姦しているところを、元憲兵が怒って日本刀で後ろ袈裟切りで斬り殺した。それまで武装解除は銃器類だけだったが、日本刀も没収となった。だが、数本は井戸に吊るして隠した。警備用の小銃、弾丸も没収されたのは当然のことである。
 木銃が衛兵に持たされた。満人が襲撃して来るというので、あり合わせの木銃の尖端を削り槍先のようにした。小瓶に油と燃料アルコールを襤褸や綿に滲ませて、間に合わせの火焔瓶を造って待機した。満人は襲撃して来なかった。
 死亡者の毛布は焼かずに水洗いして、煙草や餅などと交換した者もいたが、一番困ったのは入浴が出来ないことであった。私は日本人の風呂桶屋に3個の風呂桶を見つけた。早速軽症患者の大工気のある者を集めて屋外に風呂場を造った。時は満洲の9月末である。たった10日間で寒くて入れなくなったが、全員垢を流してさっぱりして大変な喜びようであった。
 ソ連兵は「ダバイ」と、よく臨検に来て腕時計、万年筆を取って行った。ソ連軍医は馬鹿ばかり揃っていた。ウオツカと90%アルコールと交換して飲んで、我々がケロッとしているのに、奴さん、伸びてしまった。
 臨時野戦病院から赤十字病院と名称変更して、お互いに、「さん」「君」と呼ぶことにしたのも、ソ連軍が八路軍とチェンジしてからであった。

 死亡者がなくなってきた頃、転居を命ぜられたのは10月の終わり近くであった。元の警察学校の跡であった。
 越冬の準備が始まったが、財政は苦しくなっていた。我々は出稼ぎをして食糧確保資金を貯めた。前戦にも八路軍の要請で、資金稼ぎのために出た者もいた。省立病院、八路軍の臨時旅館病院、司令部診療所に出て働いた、私はさらに民間日本人診療所長も兼任した。

(未定稿)

[作成時期]  1989.2.13

(C) Akira Kamita