関東軍衛生幹部教育隊 7
1946年2月、春節の前夜、通化暴動事件が起きた。
1945年12月頃から旧関東軍参謀・藤田はソ連に行かず、通化市内に潜伏していた。国民党軍特務(スパイ)の孫と接触して通化市を八路軍から奪い取る計画を立てた。
藤田参謀は孫特務を我々の赤十字病院の柴田院長に会わせた。「旧日本軍は通化市の八路軍を攻撃殲滅して市を占拠し、国民党軍は山中に戦車部隊を主力とした師団を導入して貰いたい」との暴動蜂起の誘いであった。反対意見もあったが、1946年2月の旧正月(春節)前夜決行することに市内潜伏の軍人、民団の幹部の全員が決定した。
「決行は春節の前夜0時、発電所のスイッチを切り全市の電気を点滅させるのを合図で全市一斉に蜂起すべし」と伝達された。
「なお武器は各自敵の兵器弾薬を奪取して戦うべし」と。徒手空拳の捨身戦法だ。
「成功率は少ないかも知れぬが、もし成功すれば国民党政府は責任を持って、全日本人を早急に帰国させると確約した。各人の武運を期待する」
皆は帰国の餌に食いついた。今のままでは帰国の望みはない。下手をすれば八路軍に死ぬまでこき使われる。溺れるもの藁をも掴むのと、焼け気味の気持ちが、日本武士道葉隠れの精神論に結びついて、「一丁、やってやるか」という気持ちになった。
通化暴動事件については「我が青春の記録 通化事件」として別記す。
なお、新京の「新」、通化の「通」を取り「新通会」が創られている。
(未定稿)
[作成時期]
1989.2.13