クランケの呟き
15 エッグの行く末
エッグがチキンになれるか、それとも目玉焼きにされてしまうのか?
これは実習に来ていた看護学院の学生とクランケ(私)の間にあった話である。
私の入院していたN病院は高等看護学院を持ち、臨床看護実習を行っていた。普通はよく勉強していて、頭も比較的良さそうな娘達が来ていて、クランケに対する看護もなかなか熱心で、優しい看護婦になる目的を持ち、実習に励んでいたが、その中の一学生が、ある日、私達4人病室に配置されて来た。ナース・ステーショシで、まず婦長、先輩ナースの訓辞や注意をされて(特にクランケの監督)張り切って入って来たのであった。
その顔は丸顔でポッチャリ、大きめの眼鏡をかけている。頭は、二つに分けたお下げで、ご丁寧にも輪ゴムで結んである。(これで絣のツンツルテンの着物を着せ、赤い帯でも締めさせたら、漫画に出ているアラレちゃんのソックリさん)この子が病室に入ると、室内を見回している。ちょうど昼食後(私は主治医、婦長の許可を得た病室内での喫煙)の一服、スパー、スパーと喫っていた。
彼女の目が途端にキラリと光った。
「なんですか、病室の中でタバコを喫ってはいけません」と怒鳴った。
私は、「病室内のタバコを喫ぅことは、主治医の先生と婦長さんに許可されています」と答えた。
すると彼女、どうしたのかカンカンになって、
「患者がなんという口ごたえをするの。看護婦が病院の規則を守れと言っているのに、患者は看護婦の命令に従いなさい」
と叱りつけた。
同室のS患者さんが、「紙田先生は主治医の先生、婦長さんの許可をチャーンともらっていますよ」と言ってくれた。
だが、頭に血が上ってカッカッしていた彼女は、
「あなたは医者かもしれないが、ここではただの患者だ。看護婦の指示に逆らうとはもっての外だ。タバコ喫むのを止めなさい」
と怒鳴り、プンプンして病室を出て行った。
しばらくして夕食の時間となった、エッグさんが来た。先刻の態度と違っている。恐らく婦長に聞いて来たのだろう。
彼女、エッグさん、
「先ほどは失礼しました。婦長さんに聞きました。タバコはドンドン喫ってください」
と、床頭台のタバコを取って、
「さあ、お喫いなさい」
と火まで付けての大サービス。私も当惑しながら一服。
彼女、先輩の悪い面を、ただ猿真似しただけで悪気はない。本当は気のいい人間だ。
私は傍に来て、何かと話しかける彼女を、先刻のお返し、ちょっとからかいたくなった。
「学生さん、お名前は」
と聞くと、
「私、Oといいます」
「Oさん、あなたは相当ひどい近視なの」
「そうです」
「なぜ、コンタクトレンズを使わないの」
と尋ねた。
「私、使ったこともあるんだけど、頭が悪いんで、どこに外して置いたか忘れて、とうとうコンタクトレンズをなくしたの」
との答え。こりゃ相当な代物だ。それではと話題を本筋に進めた。
「あなたは、看護学院での勉強は大変でしょう。どう、成績はいいの」
と聞いた。
「私、駄目なの、いつもビリッカスなの」
いやはや、正直なお答えで恐れ入った。相当頭の方は弱そうだ。
「じゃー、卒業できるの」
「お情けでできるかも」
「だけど、正式に看護婦になるには、知事試験をパスしなくちゃならないよ」
「私、パスする自信ないわ」
と小声で言う。
「それじゃ、今、看護婦の卵、鶏になるか、目玉焼きになるか、わからないんだね」
「私も、こんな眼鏡をかけてるんで、みんなから目玉焼きと呼ばれてんの」
「それじゃ、エッグの将来、大変だね」
聞いていた同室の患者さん、布団を覆ってクスクス辛そうに笑っていた。
その晩、N老人の娘さん、付き添いに来院。その話をしたら、おかしくて共に大笑い。
「ハッハッハ、ウワッハッハー」と笑いの合唱。
そこへ夜勤のTナース現れ、
「この病室の患者さん、今夜は楽しそうね。何かいいことありました」
と、その言葉で、またみんなは、
「ウワッハッハー」
Tナースも訳もわからず貰い笑い。みんな一緒に、
「ハッハー、ハッハー、ウワッハッハー」
アクカン(「悪看」でT看護婦のニックネーム)め、よく笑っていられるな。ことさらに、おかしくなって、
「ウワッハッハー、ウワッハッハァー」
お腹が痛い。左腹のストーマが暴れ出してきそうだ。
ナースには、クランケによって、ナイチンゲールナース、一般的ナース、可愛い子ちゃんナース、それからブスカン、アクカン、イラナイカンと陰で呼ばれている。こんな言葉を知ってるかな。恐らく知らないだろうなあ。
アルットだって、ドテ、ヤブ、ドッコイ、マーマー、イイ医者と呼ばれていることを知ってるだろうか。
病、医院も、金儲け主義、でたらめ病院、かかりやすい病院、かかりづらい、権威主義、官僚的病院などと呼ばれていることを知っているかな。
(未定稿)
[作成時期]
1989.1.11