病に面する達磨たりて
一歩も退かざる生涯あり
本文は、神奈川県三浦市三浦霊園の唯信院釈一道(紙田冶一)の墓碑銘としたものである。
紙田治一。かみたはるかず、と訓ず。
一九二三年四月十一日石川県金沢市金石、直江屋号紙田家に生まれる。太平洋戦争に応召、軍医任官のため満州医大卒業、関東軍野戦病院軍医となり終戦。通化事件に遭遇。爾後中国解放軍軍医として中国医大助教授、第四後方病院外科主任、分院長、第四陸軍病院軍医、河南省地方病院外科主任など歴任。五〇年、大迫チヱと結婚、生涯男女五子あり。五二年帰国、新天地を求め北海道に渡り、北海道大学医学部第一外科医局入局、貧苦の中、勉励し、医師免許取得。日本共産党系の診療所所長を務めるが、地方医療への志やみがたく、生涯一臨床医をもって任じ、六三年、空知郡上砂川町に紙田医院を開設。爾来、八五年まで地方医師として全力を傾注する。妻チヱの難治性リューマチの発症、家族の離散により辛酸を舐めるも、孤独を恐るることなく酷寒の地にとどまれり。八五年、事故による怪我に端を発し、骨髄炎、糖尿病、胆嚢癌、腸管閉塞など続発、生死の間をさまようが、患者として徹底的に病苦と闘い、夥しい手術痕、後遺障害を残しながらも奇跡的に恢復。上京し、長いリハビリでの苦闘を経、患者のための医療を痛感し、老骨を鞭撻、八八年、墨田区に診療所を開設、地域医療、老人医療に身を挺する。九四年十月、二十分にわたる心停止から蘇生後脳症に陥り、以来植物状態となるも、九五年九月二十二日までの驚異的な期間、敢然として病魔と闘い抜く。享年七十三。
嗚呼、なんたるかな、この生涯。医師として患者とともに病苦と闘い続け、患者となりては自らありとある業病に立ち向かう――。屹然として、一生の最期まで人間の根源的な哀しみである病気と闘う勇敢さは、この快男児にてきわまれり。この勇気を家訓とし、もって永遠に敬すべし。
長男彰記す。
一九九五年九月二十二日 紙田治一 永眠す
[作成時期]
1995.09.22