【登録 2003/08/24】  
紙田治一 遺稿[ ある医師のストーマ闘病記 ]


私の病歴 2

 私の病歴を述べよう。
 1985年11月19日午後5時30分頃、一日の診療が終わって、これから開始される会議に参加するため、2階の居室にて着替えをしていたところ、玄関のブザーがけたたましく鳴った。私は急患の来診と思って、少し急いで階段を降りようとした。改築して10年来一度もなかったことなのに、足を踏み外して階下に顛落した。下から4段目だったが、床に尻餅をついた時、滑って行き、玄関の下駄箱の角に、会陰部・左陰嚢を打撲した。痛くて一時失神した……時間的には約20分くらい?……気がついて玄関のドアーを開けたが誰もいなかった。待ち草臥れて余所に行ってしまったのかと思った。打った箇所が痛いので、2階に戻り、電話にて会議を欠席する旨を伝えて、ソファに横たわり休んでいた。その夜半からズキズキ打った部位が激しく痛み出した、鏡で見ると、内出血して腫れ出している。早速氷嚢で局部を冷罨法した。痛みは少し収まったが腫れはまだ去らない。湿布を替えて貼布剤にした(診療をするには、氷嚢を当てていては恰好が悪い)。
 11月22日頃から痛みかたが変わり、局所熱も出て来た。化膿炎症だと自己診断をしたので、抗生物質の内服を続けたが、一向によくならぬ。
 11月30日、自分でプンクチョンをして見たら、膿が抽出……塗抹鏡検をしたところ大腸菌が認められた。薬剤感受性の検査も行なった。第三世代のセフェナム剤が耐性なしと判明したが……化膿は進行し、全身的に熱を伴って来たので、自分で局所麻酔もなしで切開排膿を行なった。
 1回目は会陰部を12月2日……2回目は左陰嚢部を12月5日に行なった。会陰部の切開創は10日間で略治癒したが、左陰嚢部の膿流出は止まらぬ。全身熱は続くので、とうとうダウンして、1986年1月4日、A市立病院に入院。最初外科に行ったが、部位が部位なので泌尿器科に廻された。
 泌尿器科で診察、レントゲン撮影もしたが、泌尿器には異常は認めず、ただちに左陰嚢部の手術を行なった。……その時左恥骨に皹裂があったのが、見逃された……2週間で退院し、3カ月間通院した。その間に2回再切開した。
 抗生物質も注射、内服としていたが、膿の流出は止まらず続いた。5月にB病院院長B医師に診察して貰った。膿の検索、耐性、感受性等の外バリウム瘻管注入造影レントゲン撮影をして貰った。C大病院に行き精密検査、治療を受けるように勧められた。私も行こうとして、準備をしているうち、急に右脚に激痛が現われ、さらに腰痛も出た。C大病院にも行けなくなってしまった。

(未定稿)

[作成時期]  1988

(C) Akira Kamita