【登録 2003/02/01】  
紙田治一 遺稿[ 通化事件 ]


ああ……悲劇の通化暴動事件!

一、長白山(朝鮮側からは白頭山と呼称す)の麓


 満洲と朝鮮の国境、深い樹海と壮大な裾野を数百キロにわたって広がる山岳地帯とその一帯は東辺道と総称され、中央部に聳える主峰を長白山と呼ぶ。
 長白山は太古の時代から霊峰と崇められ、標高二千七百四十四メートル、山頂に天池と呼ばれる火口湖(カルデラ湖)を抱き、永久に眠れる死火山である。
 流れる水はやがて大河となって、豆満江となりソ連、朝、満国境を走り、渾江となり通化を流れ鴨緑江に注ぐのであった。
「白頭御山に、積もりし雪は、溶けて流れて荒れ荒れの、可愛い娘の、化粧の水」と、日本の白頭山節は歌っている。
「長白山に、積もりし雪は、溶けて流れて荒れ荒れの、乾いた大地の、恵み水」と、満洲国の東辺道地帯の民衆は讃えている。
 古来、幾多の民族と国家がこの山野の中に興り、また滅びていった。古くは高句麗がこの地から興り、清朝発祥の聖地となり、漢、唐、勃海、魏、遼、金などの諸国がこの地を領有した。
 やがて高句麗の後裔である清朝が現れ、中華民国となり、さらに日本帝国軍国主義政策の傀儡政権である満洲帝国が誕生したが、日本の敗戦とともに儚く崩壊し去った。今は中華人民共和国の一翼として、朝鮮人民共和国と国境を接している。
 この地域は密林に蔓延る、猛獣(虎、狼、熊)と土匪や匪賊の巣として地図にも乗っていない白色地帯の時代が続いたが、満洲帝国建国と同時に豊富な地下資源を秘めた「宝の山」であることがわかり、新たに通化省を設けるとともに遠大な東辺道開発計画が進められた。
 その当時、この一帯には反満抗日を叫ぶ楊靖宇、王殿楊、曹国安、呉義成、金日成などの朝満系匪団が猛威を振るっていた。
 なかでも「長白の虎」と呼ばれる若き統率者の活躍が目覚ましく、関東軍の精鋭ですらついに彼を捕えることが出来なかった。その後、ソ連に逃れていて、戦後北鮮首相として帰って来た金日成こそ、往年の「長白の虎」その人であった。
 第二次世界大戦(太平洋戦争)も終わりに近づいたころ、関東軍と満洲国政府はこの天然の一大要塞、そして鉄、石炭など数億トンの地下資源を秘める東辺道を最後の拠点とすることに決めた。
 こうして、幾多の民族と国家の攻防を送り迎えた長白山の歴史に、さらに一つの悲劇が書き加えられることになった。
 それは「通化事件」という名で呼ばれる。終戦の翌年の昭和二十一年二月三日、積雪に覆われていた通化省の省都・通化の街を日本人の血で染めた悲劇であった。
 源を長白山の天地に発し、老嶺の山々を貫いて通化の街へ、さらに流れて鴨緑江に注ぐ渾江の水は、この悲劇の犠牲者達の鮮血で、紅の色に染められたという。
 霊峰長白。水清く山美しい省城通化。興りゆく民族、滅びゆく国、壮大な悲劇の舞台を彩った風物と人物の様々を、しばらく東辺道の地図の中で再現することにしたい。(資料は山田一郎「通化幾山河」と「新通会」のメンバーの体験記憶の集積とを基本に纏め、さらに元通化の野戦病院(赤十字病院)の職員宇佐見晶氏等の調査資料を参考にしたものによる)

(未定稿)

[作成時期]  1989.04.11

(C) Akira Kamita