【登録 2003/02/03】  
紙田治一 遺稿[ 通化事件 ]


ああ……悲劇の通化暴動事件!

二、柳絮飛ぶ街・通化


 爽やかな風が老嶺の山々から通化の街へ吹いていた。長白山にも、もう雪は残っていない、渾江の河原は白く乾いて、堤防の柳も青々とした葉を靡かせ、山峡の街は今が最も住みよい季節だった。
 昭和二十年五月。満洲名物の黄塵万丈の「蒙古風」が訪れるのも遠のいていた。白い柳絮がフワフワと街の空を飛び、通化駅のホームでは白い香りの高い鈴蘭の花が売り出されていた。
 通化は美しい街であった。街を貫いて流れる渾江は、長白山系を抜けて氷のように冷たく、青く深く澄んでいた。まわりを取りまく山々には、菖蒲、芍薬、蓮華、蒲公英などの花々が咲き匂っていた。
 通化に住む日本人はこの街を「小京都」のようだといい、中には「ベニス」になぞらえる人もいた。そして満人達は「小吉林」だというのだった。通化という街は、そんなふうにおっとりと落ち着いた、「山紫水明」と呼ぶに相応しい街であった。
 だが、このような美しい季節を迎えた通化の街は、五月も半ばを過ぎたころから、次第に不気味な緊迫した空気を漂わせるようになっていた。
 ヨーロッパ戦線でドイツ、イタリヤは既に降伏して、東亜も南方戦線の戦局が極度に不利になり、言い知れぬ不安が靄のように日本人の上を覆いだしてもいたが、もっと身近なところにも、不安の影が差しはじめていた。その一つは、今までに例がないほどの大動員が、在通化の在郷軍人に下ったことであった。屈強の日本人が目立って街から姿を消していった。
 さらにそのころ、どこからともなく、関東軍の大部隊が移動してくるという噂が伝えられてきた。
「なぜだろう?」「何が起こるのだろう?」憲兵隊や特高警察に聞かれないように、日本人達はひそひそと囁きを交わした。
「関東軍が何かやるらしい!」そんな不安のうちに、季節はおもむろに春から夏へ移っていった。

(未定稿)

[作成時期]  1989.04.11

(C) Akira Kamita