【登録 2003/02/03】  
紙田治一 遺稿[ 通化事件 ]


ああ……悲劇の通化暴動事件!

三、永久陣地「光建設」の計画は進む


 たしかに関東軍は、「何か」をやるつもりだった。通化の、いや、全満の人々の目と耳を掠めて関東軍は着々と、その「何か」を計画して実行に移していた。
 それは「光建設」とひそかに名づけられた極秘のプランであった。そのころ、日本、ドイツ、イタリヤの三国枢軸同盟は、米、英、仏、ソ連、中国の連合国と交戦していたが、その戦いに、ドイツ、イタリヤは既に敗れていた。
 日本もサイパン、沖縄陥落に続く米軍爆撃機の本土攻撃で、日本の敗戦は最早避け難い運命だということを、関東軍参謀部では考えていた。さらに朝鮮上陸もまた避け難い。同時に北方からソ連の侵略も予想される。そのような最悪の場合の情勢判断に立って、関東軍が立案した徹底抗戦計画が、この「光建設」と名づけられた作戦計画にほかならなかった。
 この計画によると、まず通化地区に本溪湖媒鉄、鞍山昭和製鋼などの重工業を移し、兵器生産の確保をはかる。原料の鉄、石炭は、満洲のザールと称せられる地帯だけに、充分に自給自足できる。ここで武器弾薬を自給できる生産計画を立てようというのである。
 一方、関東軍の兵員は、牡丹江からハルピン、新京を経て奉天にいたる線を対ソ開戦時における第一線として配備し、主力は挙げて通化を中心とする東辺道に集結させる。同じように関東軍の指揮下にある朝鮮軍も、南鮮地区は米軍上陸を予想して配置を最小限に止め、主力は長白(白頭)山脈の南斜面に集結して、関東軍と呼応する作戦をとる。このような内容であり、「永久陣地・十年抗戦陣地」とも呼ばれていた。
 もちろん、関東軍司令部は司令官山田乙三大将以下全員が通化に移るのである。そして、満洲国政府も国務総理大臣張景恵以下が行動をともにすることはいうまでもない。
 皇帝溥儀氏もまた行宮をこの地に進めるのである。これが「光建設」の内容であった。
 計画はやがて次第に形を現わし始めた。五月も終わりのある日、関東軍第五六部隊を部隊長の瀬川大佐が率いて通化に進駐してきた。本隊は通化市に留まり、一隊は鴨緑江の沿岸の臨江に分駐した。瀬川部隊に続いて、新京第二陸軍病院から岡本軍医大佐が指揮する衛生部隊がやってきて、通化陸軍病院を開設した。
 六月に入ってから、楊通化省長、菅原同次長から通化市官民代表に対し、「近く関東軍の大部隊が移駐してくる」という内示があり、連日、官民合同の宿舎割り当て協議会が行われていた。官民指導者は軍に呼ばれて、機密洩れ防止について厳重な訓辞を受けた。
 新通化と旧通化の両駅には、毎日のように関東軍の軍用資財を積んだ貨車が到着していた。

(未定稿)

[作成時期]  1989.04.11

(C) Akira Kamita