【登録 2003/02/03】  
紙田治一 遺稿[ 通化事件 ]


ああ……悲劇の通化暴動事件!

四、髭の藤田参謀登場


 六月初夏、楊柳の繁みの下で、気の早い満人連中が昼寝を始めるころ、胸まで垂れた漆黒の長い髭を風に靡かせて、通化の街を闊歩して歩く異様な軍人が、街の人達の注目を集めだしていた。
 血色のよい顔をたっぷりと埋めた髭は、胸の第二ボタンのあたりにまで伸び、支那芝居に出てくる、「英雄関羽」そのままの姿だった。
 襟に輝く大佐の階級章、そして右の肩から胸にかけて、金色の太い参謀肩章が吊られていた。
「藤田大佐だ」「藤田参謀長だよ」その姿を見て人々はそう囁き合った。
 通化にまた新しい部隊が到着した。全満の召集兵によって新しく編成された伊万里中将麾下の満洲第一二五師団だった。この髭の大佐が新編成の伊万里師団の参謀長藤田実彦大佐だったのである。
 やがて悲劇の主人公となる藤田大佐の最初の登場であった。藤田大佐は通化の街の人達から、まもなく、「髭の参謀」というニックネームで呼ばれるようになった。それほど彼の髭は異彩を放っていた。彼は奇妙に街の人気を浚っていた。
 いつも竹を割ったように淡泊で、全く外観を飾らない、豪放で磊落な軍人だった。厳めしく勿体振り、反り返って民間人に対する高級将校を見慣れてきた通化の人達は、開けっ放しで威張らない、「髭の参謀」は、何か魅力的で、身近な親近感さえ抱かせるものがあった。
 伊万里師団が駐屯して間もなく、通化第一の料亭「東家」で官民合同の歓迎会が行われたときのことであった。
 宴のやがて酣となったとき、いきなり藤田大佐が褌一つになって立ち上がった。見ると丸く突き出た腹に、墨で黒々と大きな人の顔が描いてある。
 腹をよじり腰を振って、藤田大佐が踊り出した。それに連れて腹に描いた顔が、伸びたり縮んだり、笑い顔になるかと思えば泣き顔にもなる。一座はこの意表をつく裸踊りに割れるような拍手を送った。
「あの参謀長は話せるよ」「面白い男だよ」こうして彼は巧みに在通化官民の指導者層を掴んでしまった。
 だが、藤田参謀長の本当の魅力と人気は、もっと別のところにあった。それは彼が頼むに足る軍人だということへの期待だった。
 藤田大佐はかつて華北戦線で鬼戦車部隊長として勇名を馳せ殊勲甲の論功行賞を受け、異例の金鳩勲章を授与されているという。
 大東亜戦争では山下兵団の参謀を務めたともいう。シンガポールで山下奉文大将がパーシバル中将に降伏文書を署名させたとき、かの有名な、「イエスか? ノウか!?」とテーブルを叩いて詰め寄ったあの言葉は、実は山下将軍の背後から、「髭の藤田参謀」が投げつけたものだという。
 彼はまた、有名な支那通でもあった。「田友」という中国名を持ち、国民党政府にも多く知己を持っていた。相次ぐ悲報の中で、日本人の皆んなは、最後の夢を関東軍に、そして頼もしげな、「髭の参謀」の藤田大佐に託していたのだ。その夢がやがて大きな悲劇となって、彼らの上に覆い被さってくるとも知らずに……。
 日本の第二次世界大戦に対する戦略は、近代的物量戦に米、英、仏、蘭、蘇、中の連合国に、劣勢を承知で、短期決戦にて勝利を収めることにあった。
 長期戦の様相を帯びてきた戦局に、さらに三国同盟の独、伊は既に敗れていた。日本もミッドウェー海戦の敗戦からガダルカナルの退却転進、相次ぐアッツ島、硫黄島、サイパン島、沖縄本島の玉砕陥落などで、戦力の低下は著しかった。日本国民の中にも、軍人の中にも、特に幹部軍人に弛み、敗戦、厭戦思想が出始めていた。
 関東軍は既に精鋭戦力(兵器、兵力)を南方、沖縄に割き、加えて本土防衛の決戦にその大半を送り、かつての無敵関東軍七十万の強兵は今はその俤を失い、既に前の半分以下の戦力に低下していた。
 関東軍は特に不足している中堅幹部の育成期間を、昭和十九年から短縮し始めていた。一年が半年に、さらに三ヶ月間の速成育成の必要に迫られていた。
 そのため、教育は内容、密度とも高くなり、また濃くなっていた。幹部教育隊に選抜されて入隊する候補生はその部隊の最優秀な下士官や兵隊であった。
 新京の蒙家屯には関東軍衛生幹部教育隊があった。時期は来れり昭和二十年六月、衛生幹部教育隊では部隊長鈴木軍医大佐以下の教官、助教等は陸士出の若手兵科の将校をも加えて、その数を揃えて手ぐすね引いて待機していた。
 やがて六月に入って続々入隊して来た衛生少尉候補(衛生准尉、曹長)、軍医候補(新、医大(専)卒)、衛生下士官候補(衛生兵長、上等兵)の教育候補生の隊員を迎えて、それこそ日夜休む時間、眠る間も惜しんでの、教育や猛訓練に入っていた。
 関東軍幹部軍人のみに望まれる、戦陣訓に勝る関東軍軍人魂の特別な軍人精神の教育。戦場での指揮能力の向上強化。軍陣医学の突貫的教育学習と実技の反復実習。実戦即応の戦闘猛訓練、対戦車肉弾攻撃の訓練、特に特攻斬り込み作戦の特訓が激しかった。そのため候補生の教育の成果と進歩は目覚ましかった。
 七月の終わりごろには見違えるように逞しく、幹部として立派に成長していた。もういつでも関東軍衛生幹部として全軍に配備できるころであった。

(未定稿)

[作成時期]  1989.04.11

(C) Akira Kamita