【登録 2003/02/04】  
紙田治一 遺稿[ 通化事件 ]


ああ……悲劇の通化暴動事件!

六、その前夜


 反日運動の地下工作が、そのころにはもう全満にわたって、隠密のうちに展開されていたのである。
 元駐日満洲国大使で親日家と自他共に許していた呂栄韓が中心になって、中国の国民党の地下組織が出来上がっていたのだ。
 通化では周通化市行政科長がその組織の指導者だった。彼を通じて東辺道地区の状況は逐一、国民党本部へ報告されていた。これに並行して中国共産党の工作も通化地区へ触手を伸ばしていた。
 断末魔の苦しみに喘ぐ関東軍と満洲国政府の悪政と失政が、ますます彼らの工作を有利にしたことも争えない事実だった。
 苛酷な食糧の供出割り当てが各戸に強制的に押しつけられた。供出した食糧は片っ端から日本へ送られ農民には豆糟が配給される始末だった。
 その食糧の配給も、日本人優先であった。満人、朝鮮人はいつでも後回しだったし、不公平でもあった。
 さらに勤労奉仕隊の強制就労がこれに輪をかけた。農地造成や石炭増産のために、各部落何人と割り当てて送り出すのである。
 非難の声が街から街へ、村から村へ広がっていく。日本人は横暴だ。何が指導民族だ! そういう声が野火のように燃え広がっていったのだ。
 通化市二道溝にある東辺道製鋼所で、満人労務者がストライキに入るという事態まで発生した。たちまちこれは鎮圧されたが、根強い非難の声は収まるはずもなく、市内の治安は日を追って悪くなるばかりだった。
 そのなかで関東軍の「光建設」作業が極秘裡に進められていた。関東軍司令部は、新通化駅から北へ約一キロのところにある山麓の旧満洲国軍兵営中心とする地域に、地下施設の構築を急いでいた。
 満洲国政府の諸施設と在満日本大使館とは、旧満鉄建設事務所跡を中心にする地域に、同じように地下施設を構築しようとしていた。
 鉄と石炭と木材の街は、こうしてカーキー色の軍都に変貌していき、運命の日、八月九日の朝を迎える。

(未定稿)

[作成時期]  1989.04.11

(C) Akira Kamita