【登録 2003/02/04】  
紙田治一 遺稿[ 通化事件 ]


ああ……悲劇の通化暴動事件!

七、関東軍司令官山田乙三大将乗り込む


 八月九日午前二時、山と山の間に挟まれて静かに眠っていた通化の街は、凄じい爆撃の音で夢を破られた。爆撃は主として炭鉱地帯を狙って行われた。
「アメリカの爆撃だ!」市民はやがて明けてゆく空を仰いでそう呟いた。在通化の部隊さえそう信じていた。
 だが、午前六時のラジオが沈痛な響きで、ソ連空軍による爆撃だと放送したとき、市民は皆んな耳を疑った。すぐ追っかけてソ連の参戦と、満ソ国境全線にわかっての戦闘を伝えるニュースも放送された。
 街はたちまち大混乱に陥入った。ここは牡丹江やハイラルなどの北満の街とは違い、今日、明日にも戦場となる街ではない。
 しかし来年も再来年も、日本と満洲の国力、戦力が続く限り、最後まで戦い続けていく、「徹抵抗戦の街! 永久陣地のある街!」なのであった。
 その日のうちに、関東軍の大部隊が大挙して通化へ進駐してくることを市民は知っていた。満洲国皇帝溥儀が落ち延びて来ることも……。
 ここ関東軍の新京市郊外の蒙家屯の衛生幹部教育隊の特別強化教育、訓練の成果は著しかった。普通の三倍以上の速度と目覚しい進歩で、いつでも原隊に復帰して幹部として任務を果たせるように、鍛え上げられて逞しくなっていた。
 八月九日午前六時、起床喇叭と同時に班内のラジオスピーカーが、突然放送を始めたのだ。
「臨時ニュースを申し上げます。本日。九日未明突如満ソ国境に、ソ連軍が不法侵攻して来たれり、我が国境守備部隊は直ちに応戦して、その敵を撃退せり。さらに追撃を加えて、赫々たる戦果を挙げつつあり。関東軍司令官は全軍にさらに攻撃を開始せよと、総動員の命令を発動せり!」その前後は勇壮な軍歌の連続放送が続いた。
「全員、直ちに本部前営庭に集合! 点呼後部隊長殿の訓辞がある!」と、さらにけたたましい本部からの放送の声が響いた。各隊は全員急いで本部前の営庭に整列して、部隊長鈴木軍医大佐の訓辞を待った。
「部隊長殿に敬礼……頭……中……!」と号令がかかった。それに答礼した鈴木部隊長は、
「注目……休め……今や、極東ソ連軍の満ソ国境の不法侵略によって、日、満両国はソ連に宣戦を布告して、全面的に戦闘を開始して進撃している。
 必勝の関東軍は敵を攻撃して壊滅的打撃を与え、赫々たる戦果を挙げている。我が衛生幹部教育隊は関東軍司令部の衛生部部長の命令により、直ちに教育隊を解散して新任務に就く。詳細は追って小林庶務課長から発表する!」
 と、訓辞を終えた。教育隊庶務課長兼主任教官の小林伝三郎軍医少佐は、
「命令。少尉候補生は本日少尉に任官して、直ちに原隊に復帰すべし。軍医候補生は見習軍医士官に、下士官候補生は衛生下士官に任官して、これより関東軍臨時第一兵站病院と臨時第一野戦病院を編成する。
 兵站病院は部隊長鈴木軍医大佐殿以下五百九十四名、野戦病院は部隊長柴田軍医大尉以下百二十五名とする。
 名簿は作成後直ちに、各部隊毎に発表する。各自直ちに兵舎に帰り出動の準備をせよ」
 それを聞いた全員は、「ウワァッ! やるぞー! 露助めを追撃して、シベリヤからウラル山脈を超えて、ソ連の首都のモスクワで、勝利の入城式をしよう。そのときにまた会おうぞ!」「ドォーッ!」と大喚声を上げた。その喚声は蒙家屯の夏空に高く長く轟いていた。
 原隊へ復帰して行く者と、残る者とは互いに固い握手で別れた。その日の午後一時に、各部隊編成表が発表になった。
 関東軍臨時第一野戦病院編成表の中に筆者の紙田の名前を見た。部隊長、野戦病院院長は軍医大尉柴田久、副部隊長、副院長は衛生大尉松倉十一、外科は軍医中尉・島正寿、内科は軍医中尉平井敏雄、衛生准尉松淵正、紺田節美、衛生曹長斉藤善太郎、前原光治、衛生軍曹久村信春、多田達男、池野浄三郎、保志名保男。軍医見習士官七名、衛生下士官百六名である。
 新京の防衛に鉄嶺の戦車隊が来て当たっていた。九日の夜はソ連軍の戦闘機が三機現われたが爆弾投下も機銃掃射もなかった。我軍は低空してきたなら目にもの見せてくれようと、対空射撃の態勢を取っていたが、敵機は新京防衛隊の対空高射砲の射撃を恐れて、遥か高空で偵察飛行をして飛び去った。
 翌十日は兵器廠で、軽機関銃五挺、拳銃三十丁、弾丸百箱一万二千発、手榴弾二千個、破甲爆雷五百個、新軍刀(日本刀)を五百振りを受領す。兵器庫には大砲、戦車以外なら、中にまだまだ大量の兵器が詰まっていた。
 関東軍司令部の衛生部では機密書類の整理を手伝い、帰りには兵站、野戦病院の衛生器材を受け取った。また最後に糧抹廠で保管してある糧秣は、できるだけ多く持っていけとの命令である。
 十日、十一日と二日間で貨物列車に積めるだけ積んだが、土壇場で肝心の運転する機関士がいないとわかった。
 米、調味料、缶詰、乾パン、甘味品、日本酒などを積めるだけ積んだのに、列車は発車できないのだった。
 十一日夜、満人の暴徒が倉庫の物品を狙って、蟻が群がるように多数襲ってきた。しかし我々衛生幹部教育隊が糧秣廠の警備についているとも知らずに襲ってきたのだった。直ちに鉄条網外で食い止めるため、激しい銃撃を加えてこれを撃退した。翌朝空が白むと壕の中にも外にも、多数の満人暴徒の死体が折り重なっていた。警備している部隊が教育隊の猛者と知らぬための無駄な襲撃による彼らの死であった。
 幸い列車の機関士は野戦病院部隊の石橋健下士官が名乗り出た。彼は元満鉄のベテラン機関士の経歴があった。
 早速石橋機関士の指揮の下で機関車の整備、燃料の積み込みなどで蒙家屯糧秣廠を出発できたのは、十四日の未明になった。経験豊富な名運転士の石橋機関士も列車ダイヤがわからないため、あまり早い速度が出せないのでゆっくりと走って、新京駅には午前十時ごろようやく到着した。その新京駅は大混雑である、前線へ出動する軍用列車があると思えば、北満からの避難民が大挙南下する。
 もちろん貨車である。それも無蓋車で鈴なりに押し込まれて、老人、女、子供が着の身の着のままで乗っていた。
 我々の貨車を見ると、皆んなが手を振って叫んだ。
「兵隊さーん! 頼みますよー! お願いしますよー!」と、必死である。我々もそれに答えて、「心配するなー! 任せておけよー! 今から前線に征って、露助をやっつけてやるからな! 皆んなもそれまで頑張れよー!」と、彼らに手を振って答えた。
 軍用貨物列車は走る、ひたすら走った。ソ連機の影はない、途中で日本の二枚羽根の練習機がのんびりと飛んでいく。隼戦闘機の姿はとんと見えない。
 十五日の正午ごろ、やがて四平駅に到着した。ここで妙な話を聞いた。
「日本が無条件降伏した。天皇陛下自ら詔勅を放送された。戦争は終わったのだ!」と。
 天皇陛下の玉音放送などとは、全く信じ難い話である。
「デマだ! それは敵の謀略だ! 日本は一億玉砕するまで戦うのではないか。日本帝国軍人がそんな馬鹿馬鹿しいデマに引っかかるものか!」衛生幹部教育隊の兵站、野戦病院の全員は、それはデマだと笑い飛ばして、関東軍司令部命令の、「永久陣地」がある通化市に向かって一路、列車を進めた。
 その通化では街中が不安のうちに九日の夜が明けた。翌十日には、早くも関東軍司令部の特別列車が通化に到着した。司令官山田乙三大将、総参謀長秦彦三郎中将が、全幕僚を従えて市内南大営に司令部を置いた。元満洲国軍兵舎跡である。
 十三日には夜更けの午前一時、雷雨の中を政府諸機関が皇帝を奉じて新京を出発、翌日朝、山麓の寒村、満鮮国境大栗子に居を定めた。東辺道開発砿業所の社宅が皇帝一行の宿舎として用意された。
 一行は皇帝溥儀、皇帝弟溥傑、帝后の兄潤麒、国務総理大臣張景恵、軍事部大臣刑士廉(治安部は改称されていた)、宮内府大臣蔵式毅、尚書府大臣〓洽、以下外交、民生、興農、司法、経済、文教、交通の各部大臣、総務長官武部六蔵、総務庁次長古海忠之、経済部次長青木実などの各部長、次長という、満洲国政府の最高首脳部陣であった。
 団々たる積乱雲が長白山系の上に覆い被さり、天も地もただならぬ風雲を孕んでいた。
 天然の一大要塞、長白山脈の山野に最後の決戦の場を求めた軍と政府は予定通り移駐してきたのである。
 しかし、頼みの「光建設」はまだ着手したばかり、いつまでこの決戦場がソ連軍の攻撃に耐えることができるか、既に勝敗の成り行きは明らかだった。

(未定稿)

[作成時期]  1989.04.11

(C) Akira Kamita