ああ……悲劇の通化暴動事件!
九、避難民の群
兵隊で膨れ上がった街へ、さらに一万を超える避難民が雪崩れ込んで来た。最初の避難民は十日夜から十一日の朝にかけて到着した。この第一陣は関東軍司令部将校と軍属の家族約五百人で、新京、寛城子地区からの避難民だったが、軍人家族という恵まれた人達だけに身なりも整い、避難民というより疎開者というほうが当たっていた。
十四日には通遼方面から約三百人が着いた。これは綏南、綏西地区の病人や妊産婦の緊急避難で、前線に近い地帯だけにほとんどが無一物だった。十五日にも同方面の第二陣百二十人が到着した。
だがその後、白城子方面から二個列車で送られてきた避難民三千人が、通化駅に着いたとき、通化の日本人達は初めてただならぬ事態の中に置かれている日本人の運命と、ソ連軍の攻勢の恐ろしさとをじかに感じたのだった。
その三千人は全部が老人と女と子供ばかり、それが全くの着の身着のままで、浮浪者の集団のような哀れな姿だ。九日未明、西部国境の白城子は爆撃と同時にソ連戦車隊の猛攻撃を受けた。その中から老人と女と子供だけが貨物列車に押し込まれ、飛び交う弾雨の中を逃げて来たのだ。途中では何回となく満人の集団掠奪を受けた。そして男達は全部残留してソ連軍の攻撃に立ち向かっていった。恐らく今ごろは全滅しているだろう。
避難民はそれからは後から後から、通化の街へ津波のように押し寄せて来た。桓仁方面から八百、柳河方面から四百、臨江方面から三千というように、貨車やトラックや、そして徒歩で続々と流れ込んで来た。
避難民の総数は一万三千七百二十名、通化在住の日本人の数より多かった。その中で最も酷い避難民は、満人の掠奪で持ち物は無論、着ている物も剥ぎ取られて、丸裸にされてしまった。仕方なく付近にあった麻袋を拾い、それにに穴を開けて頭と両手を出して腰を縄で縛っていた。北満からの開拓団の一団であった。
(未定稿)
[作成時期]
1989.04.11