【登録 2003/02/05】  
紙田治一 遺稿[ 通化事件 ]


ああ……悲劇の通化暴動事件!

十、八月十五日


 そうした混乱と焦燥の果てに、八月十五日がやって来た。よく晴れた、そして暑い日だった。
 南大営の関東軍司令部では、その前夜から徹夜で緊急作戦会議が開かれていた。山田司令官を正面に秦参謀総長がその横に、それを取り巻いて参謀将校が全員出席して、大本営からの情報を中心にして最後の参謀会議だった。
 鈴木首相が終戦の決意を固め、阿南陸相は本土決戦を唱えていること、そして関東軍にとって最も重要なソ連参戦の背景と、極東赤軍の戦力などが会議の課題となった。
 秦中将以下の全参謀は、関東軍の戦力が到底ソ連軍のそれに太刀打ちできるものとは考えていなかった。彼ら自身が自らの力の限度を最もよく知っていたからである。
 だが、だからといって抗戦を放棄することは、彼らの誇りが許さなかった。最後の一兵まで、この天然の山上要塞に立て篭って戦い抜く以外にはない。山田乙三大将の表情には、深い苦渋の影が強かった。
 最後の一兵まで……参謀会議の作戦計画が予定通り「光建設」の方向に突入することを確認した。
 その明くる日、十五日に司令部はただならぬ空気の中にあった。天皇陛下自ら正午を期して終戦の詔勅をラジオを通じて放送されるという内報が、大本営から入電したのである。
 信じ難い表情のまま、ラジオの前に坐っていた参謀達も、やがて流れ出す、「天皇陛下の終戦の詔勅」放送の前に凍りついたように立ち尽くした。
 幕僚会議がまたもや司令官室に招集された。今度こそ最後の会議であった。山田司令官が沈痛に口を開いた。
「大元帥陛下の御詔勅が本日降った。終戦の御聖断である。陛下の御意志を体し、関東軍もこの際、即時行動を停止すべきであると思う!」並みいる参謀は誰も口を開かない。ついで秦中将から終戦に到る経緯が説明された。山本参謀をはじめ一番年少の薬袋(みない)(二十七歳)参謀ら若手参謀達は激しい口調で抗戦を主張する。
「我々は栄誉ある関東軍の名にかけて、あくまで抗戦を継続すべきであると考える。大本営はどうあろうとも我々は独自の立場において抗戦する!」こうして、一座の参謀は終戦派と抗戦派の真っ二つに別れて対立した。
 未だ本格的な戦闘も交えずしてソ連の軍門に降ることは忍びえないとする者。詔勅を体して耐え難きを耐えるべきだとする者。火のような論争はやがて山田司令官によって終止符が打たれた。
「御聖断に従う!」関東軍の末路は決まった。

(未定稿)

[作成時期]  1989.04.11

(C) Akira Kamita