ああ……悲劇の通化暴動事件!
十二、抗戦派長白へ
最高首脳の間で聖断を体して、即時停戦という方針が決まっている一方で、最後の一兵まで抗戦するという強硬派の動きも活発だった。
関東軍司令部でも、この両派が対立して譲らなかった。山田司令官に徹底抗戦を説いた山本参謀は、遂に十六日夜、抗戦派の将兵数百名を率いて長白山へ走った。
トラックを連ねて入山する将兵は、戦陣訓の歌を合唱しながら闇の中へ消えていく。
そういう兵隊達は皆んな若かった。応召の老兵達の根幹となって関東軍に筋金を入れていた若い兵隊達だ。
血気に逸る彼らには、やはり血気に逸る将校の命令がこのうえもなく崇高なものとして耳を打った。
長白へ……長白山へ……。
その言葉が合言葉のように、司令部から他の部隊へ、さらに隣の部隊へと伝えられていった。
かつてこの山野に跳梁していた金日成のように、天然の一大山麓を拠点としてゲリラ部隊となり、祖国再建の日を待つというのである。
民間の間でも停戦派と抗戦派が対立していた。軍歌を高らかに唄いながら長白に入っていく兵隊の列に、「頑張れよ!」と、手を振って声援する者もいる。
また不安な目で、「よせばいいのに!」と、痛ましげに見送る者もいる。
十六日、秦中将もソ連軍の召喚命令を受け、奉天を経由してハバロフスクへ飛んで行った。
司令官と総参謀長の二人を失った関東軍は、統制のない部隊の集まりと化した感があった。
十五日から十六日、十七日から十八日、敗戦のショックが日とともに将兵の胸に深く食い込むにつれて、混乱もまた激しくなった。
十六日午後二時、通化省の有力者約十名は協和会本部に呼び出しを受けた。そこで後藤憲兵隊長から、次のような要請を受けたのである。
「関東軍は独自の立場から戦闘を継続する。日系市民はあくまで団結を保ち軍に協力せよ」
関東軍はやっぱりやる気なのだ、と市民は様々な感慨に耽った。
その一方、各部隊では脱走兵が日増しに多くなった。全満の各地から応召した兵隊達は、皆んな妻や子を残して来ている。ハルピンへ、新京へ、奉天へ、彼らは妻子の身を案じて逃亡を始めたのだ。
「もう戦争は終わったのだ!」長白へ行く者、長白を下る者、兵隊達はこの二つの道を選んだのであった。
関東軍衛生幹部教育隊の新編成部隊の、臨時第一兵站病院(五百九十五名)と臨時第一野戦病院(百二十五名)の我々の軍用貨物列車は、八月十七日午前十時、関東軍最後の「永久陣地」の長白山の麓。通化省省都の通化市の駅に到着した。
その夜は通化神社前に幕舎を張り、司令部の命令を待機して露営の一夜を送った。だがその夜は全員、興奮して誰も眠れなかった。特に見習軍医、下士官の幕者では、
「日本が無条件降伏したのは、全く敵のデマだと思っていたが、やっぱり本当だった!」
「おい、山田関東軍司令官や秦総参謀長が行方不明だそうだ!」
「山田司令官や満洲国皇帝の溥儀さんも、ソ連に逮捕されている。秦総参謀長も召喚されて、シベリアに出かけて行き、逮捕されたそうだ!」
「満洲国の老張国務総理も、ソ連軍に逮捕されそうなので逃亡したそうだ!」
「これで関東軍はもう駄目だ。神国日本にも今度の戦争には神風も吹いてくれなかった。日本はもうこれで終わりだ。だが、我々は日本軍人である。軍人は死すとも、虜囚の辱めをうくるなかれである。また捕虜になると将校は全員銃殺され、その他の兵隊や男は去勢されて、死ぬまで奴隷として奴らにこき使われる。日本の女は全部淫売婦にされて、奴らにさんざん弄ばれるのだ。そして日本民族は住む国を失い、ユダヤ民族のように世界各地を放浪するか、奴ら毛唐どもの奴隷になるかだ。そんな敵の奴らの奴隷に成り果てるより、潔く軍人として死を選ぶべきだ!」
などと、各人は喧々囂々であった。
「全員、今夜ここで、潔く関東軍軍人らしく自決しよう!」
「だが自決する前に、これまで飲まなかった酒を、今生の飲み納めに思いっ切り飲んで、それから一斉に死のうではないか!」自決集団心理である。
衆議は一決したのだった。飲む酒といえば、我々の手許には自動車の代用燃料のドラム缶入りの純アルコールしかないのだった。それでもと皆でがぶ飲みが始まった。
やがて全員が急性アルコール中毒で、麻酔がかかったようにバタバタと昏睡してしまった。やがて明け方になって、「フッ!」と目が覚めると、幕舎の周囲には多数の憲兵の連中が、目の色を変えて我々を監視していたのである。いわば自決防止の厳重警戒だった。身辺の刃物、拳銃、小銃、機関銃は全て没収されてしまっていた。
「司令部の命令である。自決は厳重に禁止する!」これでは、自決は取り止めにするより仕方がない。張り合いが抜けてしまった。
今日まで、鍛えに鍛えた訓練の成果を発揮することのできない気持ちは、どこにも持っていくところがない。全員がただ苛々して時間を過ごしていた。
軍司令部に出かけていた庶務課長の小林軍医少佐はその日、十八日の午後七時ごろ、司令部から命令が出てそれを持ち帰ってきた。それは、
「関東軍臨時第一兵站病院鈴木軍医大佐以下五百九十四名は朝鮮の平壌に移動して次の命令を待機せよ!」「関東軍臨時第一野戦病院柴田軍医大尉以下百二十五名は、通化市に開設の元新京第二陸軍病院と神武屯陸軍病院を引き継ぎ、第一二五師団司令部跡(元通化高等女学校跡)に野戦病院を開設し、通化省の全傷病兵を収容して、今後診療任務を完遂すべし!」
との、関東軍司令部の軍衛生部の軍医部長命令であった。
付記……この命令について、ここでちょっと一言。我々が言いたいのは、高級幹部将校(佐官以上の職業軍人)は自分達の保身、保命のため、軍司令部の衛生部幹部達と談合して、若い柴田久軍医大尉に重大な責任と、帰国不能ともいえる切り捨て放置の、異国(敗戦で満洲は中国かソ連になる)での任務を与えた。そして、自分達にはさっさと日本(朝鮮)に南下して、さらに日本本土に帰国する命令を出させようとしたことである。
だがどっこいそうは上手にはいかなかった。彼らの日本本土に帰国できる心づもりが、結果は兵站病院の全員は、北鮮でストップして、ソ連のシベリヤに捕虜として結局三年間のラーゲル生活を余儀なくされたのだった……。
兵站病院の一行は軍用貨物列車の物資(衛生器材、薬品、糧秣、衣類等)と兵器(軽機関銃、弾丸など)を積み込んだまま、その日、十八日夜の二十二時に通化駅を発って、日本領の朝鮮に向かって南下した。鈴木部隊長以下全員は、まるで祖国日本へ帰るような浮き浮きした表情で……。
それを見送る暇もなく、野戦病院の将兵達は患者の運搬、物資(衛生器材、薬品、食糧、衣類など)の確保のための、調査、計画の会議を開いていた。
翌十九日正午から、半数は第一二五師団司令部(元通化高等女学校)跡の清掃、整理、整頓を行い、病院としての機能を果たせる準備に当たった。
残りの半数で入院患者の引き継ぎ、物資の調査と確保に運搬トラックの手配を行った。
二十日は早朝から全員で手分けして患者輸送、物資輸送に昼夜を通して当たった。二十一日までに、新京第二陸軍病院の患者四十名、神武屯陸軍病院患者三十名、在通化部隊患者八十名、合計百五十名を収容入院させた。
このとき、第一二五師団の通信隊の幹部将校、下士官、古年次兵が全員逃亡して、ただ一ヶ班の若い現役の兵隊だけが置き去りにされてしまい、途方に暮れて一室に閉じ篭もっていた。それを見た部隊長の柴田軍医大尉は哀れに思い、「彼等は上官に見捨てられて大変に不憫である。我が隊の隊員として編入させるよう!」と言って、野戦病院の総数を十名増やして、総数百三十五名とした。やがて彼らに衛生兵教育を施し、後に衛生兵として病院勤務をさせていた。
衛生器材、薬品は二つの陸軍病院から受け取った。物資は糧秣庫からできるだけ多くを運べと、一人が米俵を二俵を一度に担いだぐらい頑張ってトラックに積んだ。そして倉庫が空になるまで運んだ。被服庫では衣服も、毛布も、それぞれの倉庫から全部運び込んだ。この任務が長期になることを予想していたから、冬支度の準備の防寒用品(冬の軍服、防寒外套、冬の下着にさらに毛糸の下着、防寒靴、防寒手袋、防寒靴下等)も総て運んだことはいうまでもない。
通化ワイン製造工場のワインも全部運んだ。赤痢、栄養失調の患者が大半を占めていたので、薬用酒(赤酒)の必要があったからである。
「そのままにしておけば、ソ連軍の接収か、満人の掠奪に曝される。できるだけ速やかに運べ!」
との司令部の指令もあった。使役の通信兵の十名も加わり運搬は迅速に進んだ。
通化市にソ連軍が進駐した二十三日後も、ソ連兵の歩哨を尻目に白昼公然と運んでいた。そして、二十五日にはほとんど運び込んでしまった。
(未定稿)
[作成時期]
1989.04.11