【登録 2003/02/06】  
紙田治一 遺稿[ 通化事件 ]


ああ……悲劇の通化暴動事件!

十五、消えた藤田大佐


 新たな不安が日本人を襲った。ソ連軍が進駐して来る! 意気地のなくなった日本人は怯えきって、このニュースを受け取った。掠奪だ暴行だ。不安は頂点に達していった。
 ソ連軍進駐は二十三日だという通告が届いていた。軍、政府の全機関が同時に接収されるのである。部隊はもちろん武装解除だ。
 各部隊からは毎日のように脱走者が出始めた。みすみす坐したまま捕虜になるより、生命を賭けて逃亡しようというのだ。ある部隊などは、一夜にして百名しか残存者がなく、後は全部脱走したというような状態だった。反対に部隊長の決断によって、召集解除を行って、部隊長の責任で全員を逃亡させた部隊もあった。
 脱走者は既に交通が途絶えているため身動きが出来ず、一部が山越えやトラックに便乗して通化を離れたほかは、ほとんどが市内の民家に潜り込み、その数は三千名に近かった。様々な事件がこの間に起こった。
 通化市の北方玉皇山の見晴らし台で、大阪出身の第四五飛行大隊の高橋勝弥少尉が東方に向かって割腹自殺を遂げた。
 満洲第二五二一部隊の秋葉繁三曹長が、愛機を操縦して通化上空で別れの飛行をした後、滑走路へ自爆した。
 また、戦陣訓の精神と関東軍軍人の誇りから集団自決を図ったが、決行以前に発覚して妨害されたうえ、さらに厳重に警戒監視され、最後には、「自決禁止」の司令部命令で、ようやく自決を思いとどまった部隊。それは我が関東軍衛生幹部教育隊であった。
 第五六部隊の部隊長瀬川正雄大佐が、武装解除を潔しとしない部下の下士官のために狙撃され、頭部貫通銃創を受けて即死したのもこのころの出来事であった。その下士官もその場で他の兵隊に射殺された。
 だが残された部隊の大部分は平静にソ連軍の進駐を待った。
「武装解除後は、その生命を保障し、軍輸送をもって速やかに日本へ送還する」とソ連軍の意向が伝えられていたからだ。
 しかし、実際には、ソ連のスターリンの捕虜政策によって、シベリヤのラーゲルに三年余に及ぶ強制労働をさせられた。そして、激しい飢餓と寒さと洗脳(思想改造)の苦労の中で多数の将兵が彼の地で望郷の念に涙して死んでいった。耐えて生き残った者だけが帰国できたのであった。
 そういう矢先であった、藤田大佐が忽然と通化の街から姿を消したのは。十八日の朝、女学生に演説した彼はその夜確かに第一二五部隊の司令部にいた。それが十九日になると、影も姿も形も消えて見えなくなっていた。
 抗戦派が停戦派に押し切られたのは十八日から十九日にかけてであった。藤田大佐はその主張を葬り去られたわけだ。
「藤田参謀長、長白に走る!」「髭の参謀め、やっぱりやる気だな!」電光のようにこの声が市民の間を縫って走った。今にも再び戦争が始まるかもしれぬ。そんな不安とも期待ともつかない緊張した空気が、藤田大佐の失踪によって市民の胸の中に大きなわだかまりを残した。

(未定稿)

[作成時期]  1989.04.11

(C) Akira Kamita