ああ……悲劇の通化暴動事件!
十六、暴徒の街と化した通化
市内は十五日を境に全くの無政府状態に陥っていた。旧満洲国の機能はすべて停止した。
旧省長楊万次が中心となって、治安維持会を結成したが、ソ連軍による軍政方針も、また国府、中共のどれが政権を樹立するものかもわかず、名目だけのものに過ぎなかった。
「ソ連軍は話に聞けば、先陣は囚人ばかりの軍隊で、掠奪、暴行の常習犯の粗野な兵隊が大半を占めているそうだ」「国府は重慶の奥に蒋介石総統がいて、今直ちに満洲まではなかなか手が伸ばせないだろう」「すると、ソ連と一体の中共が、国府より満洲を手に入れやすいのではなかろうか。毛沢東、朱徳の共産党の軍隊で、紅色の房をつけた銃を手に馬上で山野を自由に駆け回り、射撃の巧い強力な軍隊で、北支ではかつて八路軍の林彪将軍の攻撃を受けて、板垣兵団がさんざんやられた。その中共軍が早く来るだろう」市民の噂は街を沸かしていた。
掠奪から始まった暴徒が集団暴動化して、やがて至るところで暴徒達は蜂起した。最も大きな暴動は二十日、満鉄社宅街を中心に起こった。その日、通化地区に在勤する満鉄社員が、専用列車を仕立てて四平街に引き揚げた。家財道具の大半は置きっ放しにされていた。そこを狙って満人達が襲撃を始めたのである。それが次第に大きくなり、掠奪は三時間に及んだ。勢いはますます強くなり、風のように満鉄社宅を掠め取った集団はいよいよその数を加え、啓通区の日本人街へ雪崩を打って殺到して来た。民家と満洲鉱山倉庫を襲い、やがて薄暮とともに、日本人が密集する中昌、東昌方面へ、渾江に架かる通化橋を渡って押し寄せて来る。
そのころ結党したばかりの国民党保安隊が、暴民に向かって発砲したことで、やっとその気勢を削ぎ、どうにか阻止することができたのは、夜に入ってからのことであった。関東軍は今や手も足も出せない立場にあった。
二十一日、日本人の統制と連絡をとるために、そして守る者のいない日本人の生命を自らの手で守るために、日本人居留民民会が結成された。
難民救済のための宿舎割り、衣料、食糧、薪炭などの手当てが当面の問題であった。街には避難民が溢れ、なおそのうえ、毎日のように流入してくる、住む家もない難民達は、駅前広場で火を焚いて野宿さえしている。
各区ではまた日本人による自警隊を組織して、生命と財産を守ろうとした。物価は毎日ぐんぐん上がるばかりだ。満人の買い占め、買い漁りは特に酷かった。金よりも物、彼らは痛切にそれを知っている。
満洲国幣がいつまで通用するものなのか? 物価はこうして急激に暴騰していった。昨日五十銭だった煙草一箱が、一夜明けた今朝はもう一円になっている。三日たったら五円でも売ってくれなくなった。ただ物々交換だけは以前からなされていたので変わりはなかった。
元来中国は銀本位国である。銀貨はますます値打ちが出てきた。五十銭銀貨は紙幣で五円、一円銀貨は大円と呼称さてれ、銀の含有率が高いので貴重がられて価値が高かったのである。
その大円が終戦前は闇値で五円だったものが、八月十五日以後では一円の大円が一躍紙幣五十円に跳ね上がった。九月に入っての高騰はさらに激しくなって百円にもなっていた。
長く中国に在住していた日本人はそのことを、生活の知恵として知っていた。大円銀貨で千円ぐらいは大抵の者は持っていた。
だが、軍人に終戦後支払われた三年分の給料は、全部満洲国中央銀行発行の紙幣だった。野戦病院では炊事で副食物肉野菜などの買い出しには、紙幣と物(古毛布、藁布団の古カバー)や大円を持っていかないと、必要なだけのものは買えなかった。
また避難民も銀貨を持っていない者がほとんどであった。
(未定稿)
[作成時期]
1989.04.11