【登録 2003/02/07】  
紙田治一 遺稿[ 通化事件 ]


ああ……悲劇の通化暴動事件!

十八、国共内戦迫る


 第一の悲劇、敗戦……、夏はこうして終わりに近づいていた。そうして、すぐにも第二の悲劇が、秋風とともに忍び寄っていた。第一の悲劇は、いってみれば日本人の悲劇であった。満洲国を創立建国して、指導民族としての優越感の絶頂から、敗者として絶望の奈落の底へ突き落とされた日本人が、当然のこととして負わなければならぬ運命が、その悲劇の性格であった。
 だが、第二の悲劇は日本人よりも、むしろ満人……今は中国人となった漢民族の上に、より多くの試練を下すものであった。
 八月十五日を境に、全満各地に起こった国府軍と中共軍との主導権争いの余波がそれである。武力衝突が各地に頻発し、やがてそれが規模を拡大して、戦争状態にまで発展していった……中国内戦である。
 国共相撃つ悲劇から、通化もまた免れることができなかった。新京、奉天、ハルピンなどの中央都市でも、国共両軍による争奪戦が激しかったが、朝鮮と国境をを接するる通化地域は、将来の大陸共産圏を確立するうえに、この地域が持つ使命の重大性から、軍事的政治的に指導権を獲ち取ろうとする中共軍の攻勢は猛烈極まるものがあった。
 中国人の悲劇はこの果てに起こった。そして悲劇は、中国人だけの悲劇に止まることがなく、やがて日本人の上にも襲いかかってきた。
 一敗地にまみれた国府軍が、中共攻略の手段に日本人をその一翼に加えようとしたからだ。
 日本人は永遠に武器を放棄したはずであった。彼らの祖国では非武装が宣言せられ、平和憲法の起草の運動も起こっていた。だがそれを知ることもない彼らは、再び武器を取って国府軍と連合して、中共軍に挑戦しようとした。
 第三の悲劇がこのようにして通化を訪れることとなる。中共軍への徹底抗戦、反乱暴動の謀議は秋から冬にかけてめぐらされた。恐ろしい落とし穴と悲惨な破局が待ち構えていることも知らずに……。

(未定稿)

[作成時期]  1989.04.11

(C) Akira Kamita