ああ……悲劇の通化暴動事件!
十九、シベリアへの道
夏から秋へ、駆け足で季節は移っていった。高原の街・通化は秋の訪れもまた早いのだ。この季節ほど、全てが目まぐるしく移り変わっていったことはなかった。送迎に暇がないほど、大小様々の事件があった。悲劇の種子はこれらの出来事を縫って、次第に一つ一つ積み重ねられていくのだった。
八月二十三日、通化に進駐したソ連軍によって開始された関東軍の武装解除は、九月一日までに全部終了した。解除された順に、各部隊は吉林に送られた。
既に秋風の立ちそめた通化の街を丸腰のまま行進していく兵隊の姿に、日本人は熱い涙を注いだが、満人達は口汚く罵声を浴びせかけた。だが部隊は黙々と引かれていく。吉林への道、それはシベリアへの道にほかならなかった。
部隊から、行進していく途中から、運ばれていくトラックの上から、逃亡する者が相次いだ。逃亡した者はほとんどが通化市中に潜入して、市民生活に入った。
全部の部隊が吉林へ移送された中で、ただ一つ残留した関東軍の正規軍部隊があった。
関東軍臨時第一野戦病院がそれである。ソ連参戦と同時に新京の蒙家屯衛生幹部教育隊が兵站病院と野戦病院に臨時編成された衛生部隊である。この野戦病院部隊は、鈴木部隊長以下五百九十四名の兵站病院部隊が朝鮮へ南下した後、柴田久軍医大尉以下百二十五名と、通信隊隊員十名を加えての百三十五名が残留して、百五十名にのぼる重症患者の治療に当たっていた。
八月二十六日、ソ連軍司令官がこの野戦病院を臨検して、他の部隊と同じく吉林へ移送することを命令した。しかし、
「入院患者の大部分が、結核患者と急性伝染病患者である。それも重症である!」
と、部隊長柴田久軍医大尉が力説したので、やっと唯一の残存部隊として駐留することが許可された。
「ただし、軍病院の資格と名称は許されず、万国赤十字条約による赤十字病院としてである。民族のいかんを問わず、一般市民に広く開放すること!」
この条件を呑んだ。名を取るより実を取るの諺もある。ここは偽装してでも任務を完遂させようと、野戦病院の名称を赤十字病院と改称した。
病院は元通化高等女学校跡、かつて藤田参謀長が作戦を練った元第一二五部隊司令部跡でもあった。
外来患者は結構多かった。暴徒の襲撃にあって負傷した者もあれば、内科患者も小児を入れてかなり多かった。外科ではアッペ(急性虫垂炎)、ヘルニアの手術患者もいて、その手術も病院では盛んに行っていた。
わけても避難民の病人が多かった。柴田院長以下に日本人が寄せる信頼も厚いものがあった。
ソ連軍の軍医は女医が多かった。古い看護婦を速成して軍医にしていたので、技術は未熟であった。例えばアッペに対してはただ腹部にヨードチンキを塗るだけで手術はしないで終わるのであった。だから死亡する者が大半であった。
そんな軍医だからソ連軍の将兵が自分達の軍医を信頼せず、ちょいちょい診療に来た。
しかし中には悪質な奴もいた。そいつらは大抵は性病を持っていた。そんな連中はどこで入手したかわからないが、サルバルサン(六〇六)を持参する者がいた。
それはソ連軍司令部の副官の大尉だったが、ある日ソ連軍医に隠れてコッソリ治療してくれと来診してきた。
そいつには日本軍隊式の治療をしてやった。尿道洗浄後濃度の濃い硝酸銀液を尿道に注入すると、「痛い、熱い、痛い!」と悲鳴を上げるので、「この弱虫め、治癒さすための治療であるから、痛いのは当たり前だ。貴様が日本人の女に悪いことをするからその報いだ。もう二度とできないように、いっそこれをチョン切ってやろうか!」と言って、さんざん脅して懲らしめながら治療してやり、今後は二度と日本人の女性を弄ばない、部下にも強姦などはさせないと約束させたこともあった。
だが唯一の正規の日本軍部隊として、旧組織をそのまま引き継いだこの病院は、やがて「通化事件」の悲劇をつくりだす一つの原因ともなった。柴田大尉は藤田大佐の有力な同志、参謀格となり、さらに自らも反乱部隊の指揮者ともなったのである。
(未定稿)
[作成時期]
1989.04.11