ああ……悲劇の通化暴動事件!
二十、いわゆる「唐ゆきさん」哀話
ソ連軍司令部は最初満洲中央銀行通化支店に置かれた。その後、興業銀行支店に移り、さらに竜泉ホテルに移転した。
竜泉ホテルは鉄筋コンクリート四階建て、白亜の近代的ホテルであった。関東軍司令部が通化に進駐してからは、その高級将校の宿舎に割り当てられていたのだが、今は赤旗が翻るソ連軍司令部となる運命となった。
このホテルに日本女性が生け贄となって送り込まれることになったのは、ソ連軍の進駐後間もないころであった。
悪質なソ連兵が道路上といわず屋内といわず、日本人の女性を襲って暴行強姦を加える事件がしきりに起こった。女は恐がって外出せず、そのうえ男性を装うために頭を丸坊主にする若い女性も多かった。
居留民会の代表が耐えかねてこのことをソ連軍司令部に恐る恐る訴え出ると、「軍は治安の責任は取る、だが日本人の若い女性数名を慰安婦として司令部へ連れて来るように!」と、逆に厄介な命令を下されてしまった。居留民会の代表達は頭を抱え込んだ。「薮を突っついて、蛇を出す」とは、このことであった。なまじ訴え出たばっかりに大変な命令を受け取ったのである。
いろいろと協議した結果、市内の特殊料亭で働いていた女性達に頭を下げて頼んでみることになった。
「真正面に言いにくいことだが、この際、日本人の娘のためになんとか我々の願いを聞いてくれないか」と頼み込むと、案の定、激しい口調で彼女達は断った。
「どうせ苦界に落とした身体ですから、金で買われるなら仕方がないと諦めてきました。だけど、戦争に負けたお蔭でやっと自由の身になれたと、私達は喜んでいるのです。それも束の間、ソ連兵の相手になれとはそりゃあんまりですよ!」と、彼女達は眉を釣り上げて怒るのだった。
「戦争中だって私達はさんざん犠牲にされてきたんだ。今また犠牲になれとは酷すぎるわよ!」とも言うのだった。
しかし結局、彼女達は弱い運命の下に生まれてきていた。その中にいた緑川という気っぶのいい姐さん株の一人が、「どうせ私達は汚れた身体じゃないか。その身体を張って、清い日本の娘さんの肉体と操が護れるというなら、私は喜んで行きますよ!」と、泣きながら言って申し出を承知すると、それにつられてやっと五人だけ頭数が揃ったのであった。
居留民会を代表して居留民会の救済所長をやっていた、宮川梅一氏が同行した。
「あんた達にもしものことがあれば私も死ぬ!」と、宮川氏は五人の女と水盃を交わした。女達は声を上げて泣いた。あまりの哀れさ、情けなさに宮川氏も男泣きに泣いたのであった。そうして揃って司令部へ行ってみると、「商売女は駄目だ! 素人の若い娘を出せ!」と言うのだった。宮川氏は必死に抗弁した。
「日本の娘はそういうことはしない。また、しろとも言えぬ。もし無理に言えば彼女達は皆んな死んでしまうだろう!」
結局、その日は五人の女を連れて宮川氏は戻ってきた。娘を出せという要求は居留民会でも最後まで突っ放した。
やがて向こうも折れてきた。かつて外地へ出稼ぎに行く女達の多かった九州の天草地方では、その女のことを、「唐ゆきさん」と呼んだと言う。竜泉ホテルへ通う彼女達も、またその「唐ゆきさん!」そのものであった。彼女達は、「日本の男達は、今度の露助との戦争には負けたけど、 私達は肉体に爆弾を持っているんだ! 一人一殺で露助を梅毒や淋病の病気にしてやるんだ!」と、口々に嘯きながら健気にも毎日竜泉ホテルのソ連軍司令部へ出かけていった。
その彼女達の相手が赤十字病院に治療に来た、例のソ連軍大尉なのだった。彼は急性淋毒性尿道炎が治癒した後、すっかり改心していた。それ以上に日本女性の持つ病気に恐れをなしたのか、通化を交替して引き揚げるまですっかり大人しくなっていた。
ソ連人はいつもウオツカを飲んでいて、それぞれが自分の酒の強さを自慢していた。ある日のこと、病気の治ったかの大尉が、我々と一緒に酒が飲みたいのか、突然こんなことを言い出した。
「ヤポンスキー(日本兵)は、今度の戦争では弱くてソ連軍に負けたが、戦争と同じように酒の方も弱いのだろう? どうです、一緒に酒飲み競争をしてみないか!」と、言うので、
「我々は戦争だって本当はソ連軍に負けたのではない! 天皇陛下の命令で終戦になったから仕方がなかったのだ! 今日では戦争はすっかり終わっている。今さらまた戦争の蒸し返しは出来ないが、ただの酒飲み競争なら君達ソ連人に負けないよ。いつでも相手になろう!」と言ったら、早速向こうが待ち構えていたように乗ってきた。
その日の夕刻、彼は部下の二名の少尉と病院を訪れて来た。もちろんウオツカをダースで持参してである。
我々は燃料用の純アルコールを、彼らはウオツカを、相互に持ち出した。それを交換して飲み始めた。
彼らは、「ブラボー!」と一気に飲み干す。
我々も、「乾杯!」と一気に飲み干すのであった。
一杯、二杯、三杯と続けるうちに、やがて三人の露助さんが伸びてしまった。この勝負は我々の完全勝利であった。
実はこの酒飲み競争はソ連軍大尉が、病気全快の感謝の気持ちを表わしたものであった。
この酒の交換飲み競争の件では、江戸末期のころ、筍を日本人が食べて、アメリカ人には竹の輪切りを食べさせて、お互いに食べ比べをして、アメリカ人を驚かせた噺のことを思い出して、我々は後で痛飲を下げて大笑いをした。
その後彼氏は頻繁にウオツカを我々の許に運んできて一緒に飲むことを楽しみにしていた。
(未定稿)
[作成時期]
1989.04.11