【登録 2003/02/08】  
紙田治一 遺稿[ 通化事件 ]


ああ……悲劇の通化暴動事件!

二十一、「八路来了」(パーロー、ライラー)


 ソ連軍が進駐してくるのと前後して、通化市には見慣れぬ中国人が次第に増えていくようだった。
 日本人は気がつかなかったであろうが、満人達は敏感にその人達が何者であるかを知っていた。彼らはヒソヒソと囁き合い、そして右手の拇指と人差指を広げて互いに頷いていた。
 それは「八」の字の形だ。
「八」とは「中国共産党の八路軍」(チュンゴー、コンサンダン、デー、パーロージュン)のことだった。
「八路来了」中共八路軍の通化潜入が始まっていたのである。終戦と同時に通化市は国民政府の統治下に入り、奉天の国民党遼寧政府の下に国民党通化支部が置かれた。
 党支部書記長には元満洲国通化省地方職員訓練所長、王道院院長などを務めた孫耕暁が就任した、彼はまた暫編東辺地区軍政委員会主任委員をも兼ねていた。戦争末期、通化に国民党の地下組織を扶植して、その指導者の一人であった人物である。
 この孫書記長の下に旧満洲国軍将兵と旧満洲国警察官を主体として編成された国民党軍が、通化市の治安に当たることになった。元通化省警務局に国民党による公安局が置かれた。
 ところが同じころ、元通化省憲兵隊跡にも、中共八路軍の新暫編成軍司令部が置かれた。ソ連軍進駐に影のように従って入って来た中共軍が、初めて公然と覆面を脱いだのである。ひそかに潜入して来ていた便衣の兵隊も、やがて制服を着けて中共兵としてその姿を現わしたのであった。
 ソ連軍が中共軍に大きな援助を与えたはことはいうまでもない。相次いで武装解除される関東軍の兵器は、そのままソ連軍から中共軍の手に渡された。暫編の装備も不十分だった中共軍は、みるみるうちに立派な軍隊に変わっていくのだった。
 そのようなありさまを目前に見せつけられた国府軍が、歯を食いしばって口惜しがったことはいうまでもない。だが中共軍の背後にいるソ連軍の勢力を見ては、国府軍も手の出しようがなかった。
 国府軍と中共軍との間に、ただならぬ険悪な空気が流れ始めていた。
「また戦争だ!」「国府と中共が一戦を交えるのだ!」そんな風評がしきりに飛んだ。
 たしかに戦機は同じ漢民族の間で熟しつつあった。そしてひそかにその時期を待っている日本人達もいた。
 通化周辺の山中に立て篭もった旧関東軍の将兵達がそれだ。国府軍は巧みにこれらの部隊に呼びかけ、早くも提携を終わっていて、国府軍内に日本人部隊さえも生まれているといわれていた。
 そんな風評を聞くたびに、通化の日本人達はあの人物を思い出した。
「あの髭の藤田参謀はどうしているだろう?」

(未定稿)

[作成時期]  1989.04.11

(C) Akira Kamita