【登録 2003/02/08】  
紙田治一 遺稿[ 通化事件 ]


ああ……悲劇の通化暴動事件!

二十二、藤田「田友」はどこにいる?


 藤田大佐はどこへ行ったのだろうか? はたして彼は長白山へ分け入ったのか?
 ごく一部の軍関係者を除いて、彼の行方を知っている者はほとんどいなかった。藤田大佐は八月十九日、関東軍の大勢が停戦と降伏に決まった日、通化から新京へ出発したのだった。それは伊万里師団長と関東軍司令部の高級参謀ぐらいしか知らない事実だった。
 彼は関東軍司令部の命令によって軍要務の連絡のため新京に向かって発ったのである。それは何の軍要務連絡であったかはわからない。しかしその軍の要務が終わり次第に、もう一度通化へ帰って来るはずだった。だが彼はそのまま消息を絶ってしまった。
 再び、あの「関羽髭!」は市民の前に現われることがなかったのである。いつのまにか越子夫人も、通化高等女学校四年生と三年生の娘を連れて、通化の街から姿を消していた。
 国共の風雲が急を告げてくるのに伴って、藤田大佐の行方と動向とは、何かにつけて市民の噂の種となった。それと符節を合わすような別の噂も、どこからともなく伝わって来ていた。
 通化市城内から約八キロ離れた山間に、二道溝というところがある。満洲製鉄東辺道支社と製鉄工場の所在地である。日系職員は全員留用されて、引き続き業務に従っていたが、その中に旧関東軍の脱走兵が潜入して工員となっているという。その数は百人を越え、しかも元第一二五師団の将兵がほとんどで、元師団参謀長藤田大佐の命を受けて、決起の時が来るのを待ち受けているというのである。
 市内では日本人の私財、公財に対する掠奪や没収が盛んに行われていた。ソ連軍と八路軍によるものであった。物価はどこまで上がるものか、全くの天井知らずだった。真っ暗闇の前途、現在の不安、日本人の誰もがこの窮状を何とか打開しようと考えた。だが実際には何の実力も日本人には既にない。
 藤田参謀にならできるのではないだろうか? ついにそんな儚い希望を抱く者さえ生まれかけていた。
「英雄・藤田!」そこまで考える者がいたことも事実だ。
 いうならば彼らは街の抗戦派だった。この抗戦派の人達はやがて次第に組織化され、やっぱり悲劇の渦中へ巻き込まれていくのであった。

(未定稿)

[作成時期]  1989.04.11

(C) Akira Kamita