ああ……悲劇の通化暴動事件!
二十三、新たな支配者
通化市を八月二十三日から軍政下に置いた第一次進駐のソ連軍部隊は、九月一日、二日にかけて全員が第二次進駐部隊と交替したが、その際、彼らは時計、万年筆、写真機、衣類などを日本人の各家庭から掠奪(ダバイ)、押収して立ち去った。
同時に厳しい脱走兵狩りが中共八路軍の協力のもとに行われた。およそ六百名の脱走兵がこれで摘発されて残らず吉林へ送られた。
「今後、もし脱走軍人を隠していた場合は、隣組全員の連帯責任として全員銃殺にする!」という厳重な布告も行われた。
こうして第一次進駐のソ連軍が撤収した後、市民は新たな支配者を迎えることになった。それまでソ連軍の蔭に隠れていた中共八路軍が、ソ連軍の撤収を機会に公然と市民の前に姿を現わしたのである。
それに引き換え、国府軍の影はめっきり薄くなっていた。中共軍の最初の仕事は旧満洲国通化省の指導者を粛清することから始まった。いわゆる売国奴(漢奸)征伐だ。定石通りの戦術で中共軍はこの仕事に着手した。
まず、旧通化省長楊万字、同次長菅原達郎を筆頭に、河瀬警務局長、超通化市長、林副市長、川内通化県副県長が逮捕された。
厳しい取り調べが旧憲兵隊跡の中共軍司令部で開始された。かつて通化省行政の最高首脳であった彼らは、今はかえって厳しい尋問を受ける身である。この中で結局生き残った者は一人もいなかった。拷問による獄死か、人民裁判の判決での銃殺であった。
官界の粛清はやがて民間にも火の手が移ってきた。日本人の事業主や商店主に対する金品提出の要求が行われ始めたのである。中共側はこれを清算運動と呼んだ。
中共軍は中央銀行、興業銀行はじめ市中の銀行を占拠して、帳簿類を全部押収していた。
それによって事業主や商店主達の預金額、終戦後の引き出し額を全部調べ上げていた。証拠書類が全部揃っているので、日本人達ばかりでなく満人や朝鮮人達もこれでは逃れる術はない。
かつての通化の街の支配者達も資産家連中も今は全く袋の鼠だった。狙われたが最後、徹底的に清算される。もし応じなかった場合は、逮捕留置されるのである。
通化市内の名ある会社、工場の社長、重役、商店主達の日本人、満人、朝鮮人を問わず一人残らず清算運動の目標となった。
(未定稿)
[作成時期]
1989.04.11